カトリーヌ・ド・メディシス
Catherine de Médicis
フランス王妃
フランソワ・クルーエ画、1559年以降。
夫アンリ2世の死後、カトリーヌは常に黒の喪服を着用していた。
在位 1547年3月31日 - 1559年7月10日
戴冠式 1549年6月10日
全名 Catherine Marie Romula
カトリーヌ・マリー・ロミュラ
Caterina Maria Romula
カテリーナ・マリア・ロムラ
出生 1519年4月13日
フィレンツェ共和国
フィレンツェ
死去 1589年1月5日(69歳没)
フランス王国
ブロワ
ブロワ城
埋葬 1589年
フランス王国
ブロワ
サンソヴール大聖堂
1610年(改葬)
フランス王国
サン=ドニ
サン=ドニ大聖堂
結婚 1533年10月28日
配偶者 アンリ2世
子女
一覧参照[表示]
家名 メディチ家
父親 ロレンツォ2世・デ・メディチ
母親 マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
テンプレートを表示
カトリーヌ・ド・メディシス(フランス語: Catherine de Médicis、1519年4月13日 - 1589年1月5日[1])は、フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后[注 1]。イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(イタリア語: Caterina di Lorenzo de' Medici)。
彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。
国内ではユグノー(フランスのカルヴァン派)とカトリックの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した1572年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。シャルル9世はこの2年後に死去し、四男のアンリ3世が即位するが、内乱はカトリック陣営のギーズ公アンリ、そしてユグノー陣営のナバラ王アンリとのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化する。1588年にアンリ3世は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺(英語版)するが、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ、ほどなく死去した。カトリーヌの死の8か月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。
芸術を愛好し、宮殿の造営や歌謡・演劇の分野で才能を発揮した[2]。また、フランスの食文化の発展に貢献したともいわれるが[3]、証拠はなく、影響を与えていないと考える学者もいる[4]。
イタリア出身ではあるが、その生涯の大半がフランス王族としての事跡であるため、便宜上、本項目ではフランス語読みの「カトリーヌ・ド・メディシス」で統一する。