邪宗の「真光」とは、「岡田光玉(おかだ・こうたま)」が創立した「世界真光文明(せかいまひかりぶんめい)教団」と、その分派である「崇教真光(すうきょうまひかり」が、手かざしによる「真光の業(まひかりのわざ)」で、すべてを浄化し、神の世界を地上に実現することを目指しているという教団です。
「世界真光文明教団」と「崇教真光」は教祖が同じであるため、祭神も教典も同じ、教義も同じです。
昭和49年6月23日に、岡田光玉が死去しました。
その葬儀の席上、教団は「6月13日、光玉は2代教え主を関口榮にという神示を受けていた」と主張し、関口榮を後継者に指名しました。
しかし岡田恵珠は「死去の10日前、光玉からの教え主継承の儀は終えている」と反論し、7月に代表役員の登記を済ませてしまいました。
これに対し関口榮は、代表役員の地位を求めて提訴し、昭和52年には「関口榮が代表役員である」という最高裁判決を得て、正式に教団の2代教え主に就任しました。
これによって岡田恵珠は文明教団から分派独立し、昭和53年に「崇教真光」を設立しました。これが両教団分裂のいきさつです。
この「手かざし」なるものは、岡田光玉が立教前に入信していた「世界救世教」と同じ類(たぐい)のものです。
教団では「不幸の原因をすべて解消し、人々を幸福へ導く具体的な方法が<手かざし>だ」と主張し、さらに「人だけでなく、食品や水、動物、機械その他に施しても効果があり、死にかけた動物がよみがえったり、動かなくなった機械や時計が動き出す」などの奇跡話を売りにしています。
岡田光玉は、「お釈迦様は、主神から遣(つか)わされた」と勝手な主張をしていますが、釈尊が説いた八万法蔵といわれる膨大な経典のどこを見ても、そんな馬鹿げたことは、一切述べられていません。
逆に仏教では、「<神>は、仏・菩薩が衆生済度(しゅじょうさいど)のために仮の姿として現れる存在と説かれており、光玉の主張とは正反対の立場なのです。
教団は、自分たちの主張が正しいというのであれば、釈尊の経巻のどこに、そうしたことが書いてあるのか、明確に示すべきでしょう。
根拠となる証文がないならば、こうした好き勝手な妄言は吐かぬことです。
教団では、現実世界の背後に「先祖霊や怨霊・動物霊などの霊界がある」という、霊界・霊魂説を盛んに主張しています。
しかも、人間のあらゆる不幸現象のうち、80%がそれらの霊魂による「霊障」であると人々の俗信を煽(あお)っています。
しかし、もし仮に、そういう霊魂が人間に憑依(ひょうい)して、さまざまな不幸をもたらすのであれば、人生の幸・不幸のほとんどが霊魂に支配されてしまうことになり、「現実世界の努力」など無意味なものになってしまいます。
物事には、すべからく「原因」があって「結果」が生じます。
霊魂が憑依して、どうのこうのなどは、因果をわきまえない不条理そのものです。
人生の幸・不幸が、霊によって決められてしまうなどという考えは、むしろ「霊に取り憑かれている」という、一種の強迫観念を人に与え、客観的な判断力を失わせ、普通の生活に支障をきたしかねません。この霊魂思想こそが不幸の原因なのです。
困ったときには