植草 貞夫(うえくさ さだお、1932年9月29日 - )フリーアナウンサー、スポーツコメンテーター、植草貞夫事務所代表。元朝日放送アナウンサー。
■来歴・人物
東京都出身。東京都立墨田川高等学校、早稲田大学卒業後朝日放送入社。同期に山内久司と澤田隆治と槇洋介らがいる。朝日放送時代、全国高等学校野球選手権大会の実況中継で数々の名言を残している。特に決勝戦は1960年(ラジオ)から(1972年はミュンヘンオリンピックの民放共同制作体(現・ジャパンコンソーシアム)の実況で出張したため開会式〜3回戦まで担当)1988年(テレビ)まで28年間実況を担当した。
日本シリーズでは1985年の阪神対西武戦(甲子園球場での第4戦)の実況(テレビ)を務めた。
1964年の東京オリンピックで民放選抜のアナウンサーの一人として実況を担当。男子100mで「黒い弾丸!ボブ・ヘイズ!」と金メダルを伝えた。
朝日放送を1992年に定年退職後も、朝日放送専属キャスターとして1998年まで高校野球の実況を担当していた。その後岐阜放送などでも高校野球の実況を務めた。
1994年〜2008年までの14年間、サンテレビ「植草貞夫のゴルフ交遊録」で阪神タイガースの選手(OBを含む)らとゴルフのラウンドをしながら、アナウンサーの経験から生かしたさまざまなインタビューを行っていた。また、2007年10月1日から半年間、ラジオ関西でABC以外初となる自身の番組「植草貞夫の青い空・白い雲」が18時から19時に放送された。
なお、長男である植草結樹は長崎放送→テレビ大阪、三男である植草朋樹はRKB毎日放送→テレビ東京のアナウンサーである。二男である植草裕樹は、植草貞夫事務所・アノンシスト企画の取締役。
1998年に死去した妻も元朝日放送アナウンサー。
■名言集
「青い空、白い雲…」:毎年、試合前に言う名文句。
「甲子園球場に、太陽が戻ってきました(この大会は雨天続きで5日間の順延だった)」、「大会は終わりました!青春のドラマの終幕!」:第57回大会 決勝戦・習志野(千葉)VS新居浜商(愛媛)
「戦いは終わった。甲子園の夏は終わった。3対2、PL学園初優勝!!」:第60回記念大会 決勝戦·高知商(高知)VS PL学園(大阪)
「甲子園球場に奇跡は生きています!」:第61回大会 3回戦・星稜(石川)VS箕島(和歌山)※当時、ABCテレビ地上波での中継は終了していたものと思われ、ハイライト(現在の熱闘甲子園)用に収録した実況での一言。
「これで腕が痛いのか?ホームラン!お医者さん-無理するなよ、はい、わかりました。その答えがホームラン!怪物ドカベンホームイン!」第61回大会 準々決勝浪商(大阪)vs比叡山(滋賀)その前に自打球を当てるも痛みを全く感じさせない特大ホームランを打ったドカベン香川に対してあえて“怪物”と称した。
「川戸、3年間の努力が今実りました!」:第62回大会 決勝・横浜(神奈川(VS早稲田実(東東京)※エース愛甲猛の控えだった川戸浩がリリーフで好投して優勝投手となったことに対して。
「第64回を迎えました夏の甲子園。幾多の名投手・大投手が、この完全試合という記録に挑んできましたが、誰一人その記録を達成した選手はいません」:第64回大会 1回戦・佐賀商(佐賀)VS木造(青森)※完全試合達成間近の佐賀商業・新谷博に対して。
「荒木大輔、鼻つまむ!」:第64回大会 準々決勝・早稲田実(東東京)VS池田(徳島)
「59歳蔦(文也)監督の青春」:第64回大会 決勝戦・池田(徳島)VS広島商(広島)
「大きく上がった〜!レフトは見上げるだけだ〜!真っ白いスタンドだ〜!ホームラーン!(中略)背番号1の水野が、背番号11の桑田に打たれました。」:第65回大会 準決勝・PL学園(大阪)vs池田(徳島)※阿波の怪童といわれた水野が、1年生の桑田にレフトスタンド中段まで運ばれるホームランの場面は衝撃的で、レフトを守っていた吉田衝は追うこともなく打球の行方を見守るだけだった。
「水野(雄仁)、自分がいつもやっている事を今日は相手にやられてしまいました。」:第65回大会 準決勝・PL学園(大阪)VS池田(徳島)※当時、猛打をほしいままにしていた池田のエース水野が不調でPL学園打線に打ち込まれる姿を見て。
「レフトへ飛んだ!レフトへ飛んだ!!レフトへ飛んだ〜〜〜〜!!!同点!!!!昭和53年の逆転PL!あれ以来伝統は生きています」:第66回大会決勝戦・取手二(茨城)VS PL学園(大阪)※9回裏同点ホームランを放ったPL学園・清水哲に対して。
「打ち上げた!これもレフトへ上がった!これも大きいぞ!これも大きいぞ!こ〜〜れもホームランになるのか〜〜!なった〜!!!スタンド〜〜〜!ホームランにはホームラン!!!」:同大会決勝戦※10回表勝ち越し3ランホームランを放った取手二・中島彰一に対して。
「さぁ〜〜〜〜〜〜映ったセンターの藤井(当時の宇部商業センター藤井進)のところに飛んだ!藤井が見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を挙げた!甲子園は清原(和博)のためにあるのか!!」:第67回大会 決勝戦·宇部商(山口)VS PL学園(大阪)
「ノーヒットノーラン目前、しばらくはマウンド上の杉内(俊哉。現福岡ソフトバンクホークス)に注目したいと思います。お許し願いたいと思います。」:第80回記念大会1回戦・鹿児島実業(鹿児島)VS八戸工大一高(青森)
といった様々な名言を残し、高校野球ファンの支持を集めた、言わば杉本清の高校野球の実況アナ版である。彼が44年間のなかで実況できなかった大物選手といえば江川卓と松坂大輔ぐらいである。
また、名言ではないが松井秀喜が5打席連続敬遠された星稜VS明徳義塾戦も彼がテレビ実況を担当し、ともすれば松井ばかりに注目が集まる中、解説としてコンビを組んだ松岡英孝(前北陽高校監督、当時)と共に、ベンチの指示でこのような戦術を取ったであろう、明徳義塾バッテリーの気持ちを慮った「勝負はしません!」という実況を行った。
第80回大会3回戦(14日目)・智辯学園和歌山高等学校vs豊田大谷高等学校戦の試合を以て実況を引退し、その時「残念ながら今日は見ることは出来ませんでしたが"青い空・白い雲"を私の心の中にしまって44年間の実況を終了したいと思います。ありがとうございました」というコメントを残した。自ら、この試合(というよりもその大会で最後に実況を担当する試合)を「野球アナウンサーとしての決勝戦」と位置づけていたという。
■阪神タイガースとのかかわり
朝日放送がプロ野球では阪神タイガースの試合を多く中継したことから、阪神タイガース戦に欠かせないアナウンサーの一人としても有名であった。
1962年セ・パ2リーグ制後、初めて優勝を決めた試合ではテレビで実況を務めたが、1964年の2度目の優勝時は、前述の東京五輪実況に携わったため、五輪開催間際と重なり、実況できなかった。
1973年10月22日に甲子園球場で行われた、「勝った方が優勝」という阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦のシーズン最終戦でテレビの実況[1]を担当したが、阪神の惨敗ぶりに7回あたりから放送席にまで暴徒と化した観衆がものを投げ込んだりするようになり(植草によるとほうきまで飛んできたとのこと)、「ABCは勘弁したろか」(この試合はABCと巨人系列のよみうりテレビとの並列放送だった)という周囲の心あるファンが毛布などでバリケードを作ってくれたおかげでかろうじて放送できたエピソードがある。その後、長らく阪神が優勝から遠ざかった時代には「架空優勝実況」をいくつか吹き込んでいる。こうした「架空実況」は当時評論家で、キー局・テレビ朝日の解説者だった野村克也から批判されたりもして、本人も「本当の優勝実況が一番です」と語っていた。1985年4月17日の甲子園球場での巨人戦での伝説の「バックスクリーン3連発」(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布)の実況を担当していた。3選手のホームランの際、バースの時は「センターへ持ってったぁー。センターが下がった、下がったぁ、下がったぁーー!逆てぇーん!!」、掛布の時は「こぉーれもセンターだ!クロマティはー、追わないっ!」、岡田の時は「センターへ!こぉーれも行くのか?こぉーれも行くのか?こぉーれも行ったー!」と実況している。解説は藤田平。
そして、1985年10月16日、21年ぶりの優勝を決めたヤクルトスワローズ対阪神タイガース戦の実況(ラジオ)を担当し、1962年以来の優勝実況が実現した。優勝の瞬間の言葉をいろいろ考えていたが、結局出てきたのは「1985年度ペナントレース、阪神タイガースが制しました」という、アナウンサーらしい冷静な言葉であった。なお日本一を決めた同11月2日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)は放映権の都合上実況できなかった。
阪神のバッターがいい打球をかっ飛ばすと「さぁー」や「こぉーれもいくのかぁー?」と絶叫することが多かった。
一方、阪神ファンの応援の代名詞であるジェット風船については、実況の中で「(試合中に)こういうのを飛ばされると、試合進行の妨げとなるので、是非とも止めて頂きたい」と批判的なコメントをしたことがある。
■著書
「青い空白い雲−甲子園高校野球放送42年−」(講談社、1999年3月)
困ったときには