『4che』
活動期間
2006年〜
メンバー
石川 慎也 1987年 10月7日生まれ 担当(Gt&Vo)
呼び名(ちゃん)
稲田 洋介 1985年 12月18日生まれ 担当 (Gt&cho&Vo)
呼び名(いなちゅう、)
小林 達也 1987年 5月26日生まれ 担当 (Ba&cho)
呼び名(コバタツ、達也)
斎藤 渓祐 1987年 5月28日生まれ 担当 (Dr&cho)
呼び名(モアイ、ハゲ、カタハゲ、顔面亀頭)
2006年某日、某埼玉のFランク大学にて当時1年だった斎藤、小林、石川、斉藤(孝)にて結成された4ピースバンド。
はじめの担当は斎藤(ボーカル)石川(ギター)小林(ベース)斉藤(孝)(ドラム)の編成だったが、初めてのスタジオ練習にて、斉藤(孝)の『………できねぇよ……。』がきっかけで斉藤(孝)が脱退。その後暇を持て余していた稲田が急遽(ギター)として加入。そして 今の『4che』に至るのである
このころの『4che』は拠点を北朝霞に起きひたすらコピーバンドの頂点に立とうと飛躍する。……が実力を披露する場が無く、埼玉の片隅に埋もれてしまう。
この頃からだろうか、『4che』のスポンサーとしてゴリが加入する。
因みに、彼は数ヶ月『4che』のボーカルとして加入するのはまだ先の話しである…。
2006年から2007年までひたすら北朝霞、南浦和で練習を繰り返すが披露する場に恵まれず時間を無駄にする。この頃に練習していた曲には、
アシッドマン『造花が笑う』
ストレイテナー 『REMINDER』
ゴーイングステディー 『愛しておくれ』
などの名曲が並ぶ。
この頃だろうか、『4che』史上で最悪最低の事件が起きる。石川が急遽歌いたくないとゴネはじめ、スポンサーのゴリをボーカルとして加入するが、何回目かのスタジオオール練習にてゴリが持病の『てんかん』を起こして救急車で運ばれる。
これを期に、ゴリが脱退、石川が元のポジションに戻る。この事件が無かったら今の『4che』は存在していないだろう……。
2007年になり、このままではいけないと某埼玉Fランク大学の音楽研究会に入部する。
これがきっかけで入部一ヶ月たらずで後に『4che』の恒例ライブとなる『音流』に初参加する。
この時のライブでは、
『造花が笑う』
『REMINDER』
『こいのうた』
『愛しておくれ』
を披露する…。
これで、埼玉…いや、川口市………いや、大学……いや…………仲間内での人気を確保する。
この頃からだろうか、石川が急激に太りだし、稲田がお猿さんの如く腰を振りだし、斎藤がカタハゲにし単位が取れない、小林の上達が遅いとバンド内に曇りが見えはじめる。
2007年二回目のライブは大学の学園祭である。
この時、体重が80キロを超えていた石川がまた奇行にはしり一曲目の『REMINDER』を歌いたくないとゴネ始めた。
そこでの苦肉の策が後藤という奇人にボーカルを頼むと言いはじめ、ライブ開始直前に音合わせをしてライブを実行するが、合うはずもなく稲田がステージで発狂する。
この時のライブを人は『血の日曜日』と呼ぶ。
しかし、才能のあった稲田を中心に、石川、稲田、小林、斎藤の四人は独自のライブパフォーマンスを確立していく。
2006年から2010年までの曲レパートリーは以下のようである。
コピー
『造花が笑う』
『SILENCE』
『REMINDER』
『愛しておくれ』
『TENDER』
『プライマル。
『こいのうた』
『killertune』
『街』
『包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ドス・キリ』
『goodbye』
オリジナル
『killer・チャン』
『フラスコ(てんかんから学んだ者)』
『パステル』
『I scream』
『hourGlass』
などがある。
2010年1月の某日、稲田の就職、小林の大学院、斎藤の大学留年&休学、石川の留年をきっかけにバンド活動を休止。
しかし、風の噂によれば石川と斎藤は国分寺周辺で音楽活動をやっているとか、やっていないとか……。
音源は残っていないが、2010年に石川が『4che』の事を歌にした『サウザンド・サマー』という歌が存在するらしい……。
彼等が音楽界に舞い戻って来るのは時間の問題だろう。
以上はすべてW○ki○ediaからの転送である。
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困ったときには