初めに、神が丼を創造した。中には何もなく、混沌の闇があった。そのとき神が「光あれ」と仰せになった。すると米の大地があった。神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第一日である。
次いで神は、「タレよ、大地を流れる川となれ」と仰せになった。すると茶色のタレが米の大地を潤した。これによって味がなく食べにくかった米は、味だけでなく汁気をも得て、食べやすくなった。神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第二日である。
次いで神は、「地は植物を生み、育め。植物は動物を育む糧となれ」と仰せになった。すると玉ねぎがあり、肉があった。米とタレだけであった丼は華やかとなり、料理としての体裁を整えた。神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第三日である。
次いで神は、「紅生姜は箱に、醤油と七味唐辛子は小瓶の中にあれ、味を引き締め彩を添えよ」と仰せになった。すると紅生姜があり、醤油があり、七味唐辛子があった。これらは無料で好きなだけ追加できた。神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第四日である。
次いで神は、「椀は、玉子や、味噌汁や、お新香、その種類に従ってサイドメニューを生ぜよ」と仰せになった。すると玉子があり、味噌汁があり、お新香があった。これらは有料ではあったが、メニューの幅を大きく広げた。神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第五日である。
次いで神は、「丼よ、その世界を広げ、量を増やせ。また、つゆの量は自在となれ」と仰せになった。すると大盛があり、特盛があり、またそれぞれにつゆだくとつゆぬきがあった。これらを受け入れずに普通の並盛を注文し続ける者もいたが、神はそれを見てよしとされた。こうして夜となり、朝となった。第六日である。
こうして丼と全ての事象が完成された。神は第七日に、己の成した業の完成を告げられ、すべての業を休まれた。神はこの第七日を祝福し、聖なる日とされ、疲れと空腹を癒すために己の創り給うた牛丼を貪り喰らった。
(『創世記』より抜粋)
以上の記述からわかるとおり、牛丼とは斯くも崇高にして神聖なる食物なのだ。
人の子よ、牛丼を称え、崇め、拝し奉れ。さすれば神の国への道は必ずや開かれるであろう。この宇宙の真理を体現した素晴らしくも偉大な食物を、世のすべての人々に遍く知らしめる事こそ、我らが生涯をかけて全うすべき務めなのだ。ああ、すべての牛丼を愛するものに栄光あれ。
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これはかつて牛丼教の本部があったアドレスです。長らくの更新停止の後、現在ではデッドリンクとなってしまいましが。
しかし彼らの意思は途絶えたわけではありません。試しに「牛丼教」で検索してみてください。彼らの教えによって開眼し、新たに伝道師となった者たちの活躍が見えてくることでしょう(このコミュの管理人である私もその一人です)。