セビリャからチュニスに亡命した名門ハルドゥーン家の出身。青年時代に哲学者アービリー(al-Abili)に師事する。ペストの流行を生き延びたのち、『宗教学概論要説』を執筆。やがてチュニスのハフス朝を振り出しに、マリーン朝、ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界のイスラム政権の宮廷を渡り歩いた。
最初のハフス朝では秘書官に任ぜられるもその地位に満足せず、マリーン朝においては陰謀に加担したとして投獄される。三度目の仕官先であるナスル朝ではムハンマド5世の寵臣として立身し、カスティリャ王国への使節に任ぜられるなど重用されるが、それが高じて宰相のイブン=アルハティーブとの間に亀裂を生じ、退去を余儀なくされる。
四度目の仕官先である地方都市政権のベジャーヤでは旧知のハフス朝の王子の知遇を得、執権として重きをなすが、相次ぐ戦乱の中でペジャーヤ政権は壊滅し、戦死したスルタンに代わって敵のザイヤーン朝の軍勢に街を明け渡す。このようにイブン=ハルドゥーンの政治家人生は流転の連続であり、それが後に学者としての彼の思想体系に大きな影響を及ぼしたとされる。
ペジャーヤを去った後は政治の表舞台から身を引き、学究の道に邁進する。現アルジェリアのイブン・サラーマ城にて西アジアイスラム史の体系化を試み[2]、歴史書『イバルの書』(Kitab al-'ibar)[3]を著して、学界において確固たる地位を築く。カイロに移住して活発な講演活動を展開し、マムルーク朝のスルタン・バルクークの信任を得て、多くの学院の教授職を歴任し、マーリク派の大法官に任ぜられた。
この後クーデターに関与したとされて政治的には失脚するが、学者としての名声は衰えることがなかった。ティムールのシリア遠征によるダマスクス包囲に巻き込まれるが、その名声を聞きつけたティムールによって陣中に招かれ、大いに弁舌を振るって周囲を圧倒した。
再びエジプトに帰還した後には何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て歿した。
* Kitab al-'ibar『イバルの書』
* Al-Taʕrīf bi Ibn-Khaldūn wa Riħlatuhu Gharbān wa Sharqān 『自伝 西また東』
困ったときには