作家・冥王まさ子のコミュニティです。冥王さんの作品がお好きな方、どうかご参加ください。
***主な作品***
【単行本】
1979年12月 『ある女のグリンプス』(河出書房新社, 講談社文芸文庫)
1982年11月 『雪むかえ』(河出書房新社, 河出文庫)
1984年5月 『白馬』(講談社)
1985年11月 『天馬空を行く』(新潮社, 河出文庫)
1995年11月 『南十字星の息子』(河出書房新社)
【翻訳】
1969年6月 『ゴダールの世界』(リチャード・ラウド/柄谷真佐子訳、竹内書店)
1970年7月 『未来の小説』(アナイス・ニン/柄谷真佐子訳、晶文社)
1972年12月 『現代という時代の気質』(エリック・ホッファー/柄谷行人・柄谷真佐子訳、晶文社)
1974年5月 原真佐子名義で、「ヘンリー・ミラーとの出逢い」を「文藝」6月号、「ジューンとヘンリーと私」を7月号、「夏の終り、そして……」を11月号に掲載。
1974年11月 『アナイス・ニンの日記 1931〜34 ヘンリー・ミラーとパリで』(原真佐子訳、河出書房新社)
1994年6月 『フェアウェル・スピーチ 別れのあいさつ』(レイチェル・マカルパイン/冥王まさ子・グループEN訳、新水社)
1995年2月 『魂の隠れた深み 精神分析を超えて』(ルドルフ・シュタイナー/冥王まさ子・西川隆範訳、河出書房新社)
1998年8月 『狼と駈ける女たち 「野性の女」元型の神話と物語』(クラリッサ・ピンコラ・エステス/原真佐子・植松みどり訳、新潮社)
【その他】
1972年3月 野中涼『アイリス・マードック』の「批評紹介」(「英文学研究」第48巻第2号)
1978年1月 「アナイス・ニンの娘たち」(『崩壊する女らしさの神話』、牧神社)
1979年2月 「挫折の中から54年度文藝賞受賞」(「文藝」2月号)
〃 「ジャン=ジャック・ルソー その『第二論文』をめぐって」(柄谷真佐子、『現代思想 一二月臨時増刊』所載)
〃 「オートメーション・余暇・大衆」(『人生読本 仕事』、河出書房新社)
1980年9月 「ダーク・レィディのゆくえ――フィッツジェラルドについての一考察」(『文学とアメリカ?』、南雲堂)
1981年8月 「アナイス・ニン」(柄谷真佐子、「英語青年――『女性と英米文学』特集」)
1982年2月 「アメリカにおける異族の文学」(「週刊読書人」2月22日号)
〃 9月 「分身と同一化」(「すばる」10月号)
〃 12月 「受賞まで」(「文藝」1月号の特集「文藝賞二十周年」欄)
1983年9月 「息子と猫」(「文藝」10月号)
1984年1月 「グランド・リユニオン」(「文藝」2月号、後に『ある女のグリンプス』に併録)
1985年9月 「台風一家」(「文藝」10月号)
1985年10月 「ウェンズデーナイト・フィーバー」(「東京新聞」、10月22日号夕刊)
1988年7月 「『子連れアグネス』をめぐって」(「群像」8月号)
〃 12月 「たった一人のランドセル」(「文藝」1月号)
〃 「逆光のなかの歩み」(「婦人公論」1月号)
1990年1月 「影響の呪縛」(「群像」2月号、レーヌ=マリー・パリス『カミーユ・クローデル』の書評)
〃 8月 「エイズとその恐怖をめぐって」(「群像」9月号、スーザン・ソンタグ『エイズとその隠喩』の書評)
1991年7月 「土星に寄せて」(「群像」8月号)
〃 8月 「エマ・サントス『私は、エマ・Sを殺した』」(「文藝」9月号)
〃 11月 「星とメランコリー」(「imago」の特集「躁鬱病」)
1992年4月 「友あり、遠方より」(「群像」5月号、「センチメント」欄)
〃 5月 「怒るべきか怒らざるべきか」(「群像6月号、「センチメント」欄」)
〃 6月 「アスラをたずねて」(「群像」7月号、「センチメント」欄)
1994年1月 「『森の中の淑女』へむけて」(「群像」2月号、「楽しみの世紀末」欄)
〃 2月 「昨日に架ける橋」(「群像」3月号、「楽しみの世紀末」欄)
〃 3月 「不在の父たち男たち」(「群像」4月号、「楽しみの世紀末」欄)
1995年5月 「魂のパースペクティヴ」(「群像」の特集「戦後・50年の時空間から」欄)
***略歴***
1939年、東京都世田谷区砧町に生まれる。57年、AFS(American Field Service)生としてアメリカのボストンに留学。61年、文学座付属演劇研究所に入所。生63年、東京外国語大学英米科卒業(卒業論文は「演劇試論」)。65年、柄谷行人と結婚。67年、東京大学大学院英文科修士課程修了(修士論文はローレンス・スターンに関する、「A Study of Laurence Sterne ――an individual and expression」)。73年、大学紛争で学生を支援し、教職を辞す。この時期、夫である柄谷行人は「内向の世代」を擁護し、「群像」にて「マルクスその可能性の中心」連載を始める。75年、イェール大学東アジア学科の客員教授として招聘され共に渡米、コネチカット州南部の学術都市・ニューヘイヴンに1年間滞在する。78年、ポール・ド・マン、ジャック・デリダとニューヘイヴンのレストラン「ジョージ・アンド・ハリス」で会食、ニューヘイヴンを舞台にした長篇小説の構想を語り、ド・マンを実名で書くことの許可を得る。79年、この構想を小説化した「ある女のグリンプス」で第16回文藝賞を授賞。西川隆範や中上健次夫妻と親交を深めた。95年3月、動脈瘤破裂のために突然入院。4月21日、クラリッサ・ピンコラ・エステス著『狼と駈ける女たち 「野性の女」元型の神話と物語』翻訳中にサクラメントの病院で急逝し、6月10日東京・千日谷会堂にて葬儀・告別式が行われる。