六世尾上梅幸のコミュニティです。
五代目尾上菊五郎の養子となり、芸を厳しく仕込まれた女形。
江戸前の二番目狂言を得意としながらも、丸本物、変化物にも独特の妙味を発揮しました。
(冒頭の写真は、三世河竹新七作『江戸育御祭佐七』芸者小糸です。)
【略年譜】
明治3年(1870)名古屋の生まれ。
父は、三代目尾上菊五郎の孫、尾上朝次郎。
母は、名古屋伏見町で芸者家を開き、大いに盛名をうたわれた信濃屋貞子。
明治10年、初代西川鯉三郎の浚いに、『五條橋』の牛若を勤めました。
明治18年、千歳座の初開場のときに、尾上栄之助として、東京における初舞台を踏みました。
明治24年、五世尾上栄三郎と改名し、名題昇進しました。
明治36年2月、養父、五代目菊五郎が亡くなりました。
翌月には、六代目尾上梅幸を襲名しました。
同年9月、九代目市川団十郎歿。
団菊亡きあと、歌舞伎座を活躍の場としていましたが、明治44年、初開場の帝国劇場の専属俳優となりました。
大正12年、関東大震災で永田町の自宅が焼失しました。
丸ノ内の帝国劇場も、警視庁からの類焼により、場内外に甚大な被害を受けました。
大正15年5月、長男、七代目尾上栄三郎を亡くしました。
昭和2年9月、次男、尾上泰次郎も亡くしました。
昭和3年1月、帝国劇場の興行中に脳溢血に罹りましたが、6月には全快出勤しました。
昭和4年1月、帝国劇場の『色彩間苅豆』(かさね)が中村芝鶴の手でフィルムに収められ、今に残っています(NHK所蔵)。
昭和9年(1934)11月4日、歌舞伎座の舞台上、脳溢血で倒れ、同月8日、亡くなりました。
芝の増上寺で葬儀が営まれ、雑司が谷に葬られました。
【著作等】
昭和2年から雑誌『演芸画報』に連載された芸談「梅の下風」は、昭和5年、単行本として刊行されました。
歿後には、写真、年譜、追悼の辞などを増補して『新修 梅の下風』として刊行されました。
歿後十年を期して、昭和19年には、川尻清潭により『女形の事』が刊行されています。
平成20年5月〜6月、早稲田の演劇博物館で、『六世尾上梅幸展』が開かれました。
順次、内容を充実させていきますので、どうぞ宜しくお願いいたします。