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安藤 昇に学ぶ会

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詳細 2022年1月8日 12:41更新

安藤 昇好きな人あつまーれ。

[経歴](Wikipediaより)

安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - )は、日本のヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。株式会社東興業(通称:安藤組)組長。

東京都新宿区出身。

安藤組(東興業)設立まで
1926年(大正15年)5月24日、東京府豊多摩郡淀橋区(現:東京都新宿区)東大久保で生まれた。安藤家の先祖は北条早雲の侍大将・安藤式部だった。

横浜市平安尋常小学校時代は6年間、級長を務めた。

1938年(昭和13年)ごろから、学校をさぼって、新宿のミルクホールにたむろするようになった。

1939年(昭和14年)3月28日、横浜市平安尋常小学校を卒業した。同年4月、神奈川県立旧制川崎中学校(現:神奈川県立川崎高校)に進学した。

1940年(昭和15年)晩秋、安藤昇の父が満州国奉天に転勤した。両親は奉天に移った。安藤昇は祖母とともに日本に残った。同年、安藤昇は、先輩の相田とともに、自宅の剣道具を古道具屋に売った。その後、相田は学校の剣道具を盗み、古道具屋に売った。相田は警察に逮捕されると、安藤昇が主犯だと主張した。同年、安藤昇は、淀橋警察署に連行され、取調べを受けた。安藤昇は60数日間、相田と共謀して剣道具を盗んだことを、否認し続けた。安藤昇は、九段の少年審判所に送られ、その後、調布の感化院「六踏園」に入れられた。1ヵ月後、安藤昇は、相田の証言で嫌疑が晴れ、六踏園を出た。それから、安藤昇は他校の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになった。このころ、安藤昇は帝京商業学校(現:帝京大学高校)の加納貢(後に新宿の帝王と呼ばれた)と知り合った。同年暮れ、安藤昇と加納貢は、立教大学の学生・杉本法介(後の安藤組組員)と知り合った。安藤昇は、杉本法介の紹介で、新宿不良グループの首領・慶応大学学生の館崎直也の弟分となった。

1941年(昭和16年)2月、安藤昇は満州国奉天の両親の元に移った。同年4月、奉天第一中学校に転入した。このころ、奉天の艶楽書館に入った。同年11月、安藤昇は、奉天の料理店で、奉天商業高校の教師と喧嘩になり、暴行を加えた。この事件で、安藤昇は、奉天第一中学校を退学になった。安藤昇は、日本に帰り、中部鍋屋横丁の叔父の家に預けられた。同年、安藤昇は、濡れ衣を着せて安藤を感化院にやった相田に、暴行を加えて報復した。同年、安藤昇は、大久保界隈の不良仲間の番長・秋田征治と決闘し、剃刀で相手の右頬を切り裂き、詫びを入れさせた。

1942年(昭和17年)2月、新宿駅で、安藤昇は、愚連隊の首領・万年東一(「愚連隊の元祖」と呼ばれた)の出征を見送った。同年4月、安藤昇は京王商業学校(現:専修大学附属高校)に転入した。すぐに、京王商業学校の番長になった。同年5月、安藤昇は喧嘩で前歯2本を折った。同年7月、安藤昇は京王商業学校を退学となった。その後、安藤昇は旧制智山中学校に転入した。旧制智山中学校に転入して3ヶ月後、旧制智山中学校の同級生が、東洋商業学校(現:東洋高校)の不良たちに因縁をつけられたため、安藤昇が間に入って話をつけた。その1ヵ月後、旧制智山中学校の柔道部主将・戸山剛史や副将たちに、東洋商業学校の一件が知られて、安藤昇は旧制智山中学校の柔道部部員たちにリンチを受けた。1週間後、安藤昇は不良仲間2人を連れて、戸山剛史の住むアパートを襲い、戸山剛史ら柔道部部員を恐喝して、現金5円や剣道具、柔道着などを奪った。安藤昇たちは、剣道具、柔道着などを古道具屋に売って、150円を得た。その2ヵ月後である年の暮れ、脅された柔道部部員が警察に訴えて、安藤昇たちは、淀橋警察署に逮捕された。

1943年(昭和18年)、安藤昇は練馬警察署に移送された。同年、安藤昇は九段の少年審判所に送られ、そこから多摩少年院に護送された。4ヵ月後、安藤昇は海軍予科練習生になる決心をし、願書を提出し、合格した。同年12月8日、安藤昇は、第21期海軍乙種飛行予科練習生として、三重海軍航空隊第83分隊6班に入隊した。

1945年(昭和20年)6月、安藤昇は、109部隊特攻「伏龍」に志願し、横須賀市久里浜に配属された。同年8月15日、安藤昇は終戦を迎え、除隊した。安藤昇は、両親の疎開先である藤沢市に移った。同年10月、安藤昇は上京した。同年12月、安藤昇は、新宿武蔵野館前で、野田克己(後の安藤組幹部)と再会した。安藤昇は、下北沢にある野田克己のアパートに転がり込んだ。その後、安藤昇は、加納貢、法政大学の学生・黒木健児(後の安藤組幹部)、西条剛史(後の安藤組幹部)、庄司茂(後の安藤組幹部)と再会した。同月、安藤昇たちは、下北沢の喫茶店「パール」を根城にして、新宿・渋谷・銀座に進出し始めた。このころから、愚連隊「下北沢グループ」が形成されていった。

1946年(昭和21年)1月、安藤昇と野田克己は、銀座で、愚連隊・銀座白虎隊の者2人と喧嘩になり、2人を叩きのめした。安藤昇は、銀座白虎隊の1人が持っていたドスを、奪い取った。同月、安藤昇と野田克己と西条剛史は、銀座の喫茶店で、銀座の「デカ市」と云う不良たちともめた。安藤昇は、喫茶店のトイレで、「デカ市」と決闘をし、「デカ市」を破った。安藤昇たちは、東銀座の進駐軍用ビアホールで、「デカ市」と手打ちをした。同年、安藤昇の兄貴分だった館崎直也が肺病で死亡した。

同年3月、下北沢の屋台で、黒木健児と野田克己が、テキヤ三田組組員2人ともめた。三田組組長は、万年東一の戦友・三田剛造だった。黒木健児が三田組組員2人を倒した。また、同月下北沢駅前で、下北沢グループが、三田組組員と喧嘩になり、加納貢、野田克己、黒木健児らが三田組組員を叩きのめした。その後、喫茶店「パール」で、再び黒木健児・野田克己と、三田組組員が喧嘩になり、黒木健児が三田組組員を倒した。それを知った三田剛造の舎弟・沢野哲也は、配下の三田組組員とともに、東北沢で、黒木健児と野田克己を襲った。野田克己が、沢野哲也に、日本刀で背中を切られ、重傷を負った。その日のうちに、安藤昇たちは、三田組に殴り込みをかけたが、三田組事務所には誰もいなかった。三田剛造や沢野哲也は警察署に自首していた。その後、安藤昇は、銀座白虎隊の1人から奪ったドスから足がつき、世田谷警察署に逮捕された。安藤昇は、銃砲刀剣等不法所持で、書類送検された。

同年4月、安藤昇と西条剛史は法政大学予科に入学した。同月、安藤昇は、喫茶店「パール」で、万年東一と話し合い、三田組と手打ちをした。同年、安藤昇は、法政大学の番長になった。同年5月25日、新宿のダンスホールで、安藤昇は、元テキヤの大橋正二と喧嘩になり、ナイフで大橋正二の手のひらを切った。大橋正二の兄弟分だった山手線の顔役が、安藤昇と交渉し、手打ちとなった。同年、渋谷で、安藤昇と西条剛史は、地回りのヤクザ3人と喧嘩していた外食券食堂の闇切符売り・須崎清(後の安藤組大幹部)を助けた。須崎清は、その場で安藤昇の舎弟となった。安藤昇たちは、須崎清の口利きで、外食券売りの元締めたちの用心棒となった。

1947年(昭和22年)4月23日、安藤昇は早苗と結婚した。安藤昇は、早苗の両親が配給を受けるために酒屋として使っていた家で、所帯を持った。場所は渋谷区金王町だった。この家が下北沢グループの事務所となった。同年、花田瑛一(後の安藤組大幹部)、石井福造(後の安藤組大幹部・住吉連合常任相談役)、島田宏(後の安藤組参謀)が下北沢グループに加わった。同年、安藤昇は、ハワイの日系2世の下士官と知り合い、駐留軍の物資を闇で売りさばくようになった。

1948年(昭和23年)、安藤昇はシボレーを購入した。同年、駐留軍の物資を闇で売りさばいていたことから、ハワイの日系2世の下士官や須崎清が、物価統制令違反で、CID(特別犯罪捜査部)に逮捕された。ハワイの日系2世の下士官は軍事裁判で、本国送還となった。同年秋、安藤昇は、兄弟分・高橋輝男(後の住吉一家大日本興行初代)の紹介で、銀座に洋品店「ハリウッド」を開店した。裏では、再び駐留軍の物資を闇で売りさばいていた。

1949年(昭和24年)春、安藤昇は、銀座で、三国人系ヤクザ・蔡に、左頬を切られた。傷は左頬のもみあげから唇まで約15センチで、30針が1時間半かけて縫われた。1ヵ月半後、喫茶店で、高橋輝男が、安藤昇に、蔡との和解話を持ちかけてきた。高橋輝男は、蔡の兄から和解を頼まれていたからだった。安藤昇は和解話を断った。高橋輝男が蔡を喫茶店近くまで連れて来ていたので、安藤昇の舎弟たちが、蔡を捕まえて刺殺した。同年、安藤昇は法政大学を中退した。

1950年(昭和25年)秋、安藤昇は、渋谷区宇田川町に、バー「アトム」を開店した。同年、石井福造の紹介で、花形敬が、下北沢グループに加入した。

1952年(昭和27年)5月7日夜、花形敬と国士舘大学の学生・佐藤昭二(後の安藤組幹部)が、渋谷栄通りで、「人斬りジム」と呼ばれる白系ロシア人と揉めた。花形敬が「人斬りジム」を殴打し、佐藤昭二が投げ飛ばした。「人斬りジム」は自宅に戻って日本刀を取り出し、妻(通称:お蝶)とともに、花形敬と佐藤昭二を探して、渋谷を徘徊した。翌5月8日午前1時ごろ、花形敬と佐藤昭二は、「人斬りジム」とその妻と遭遇した。佐藤昭二が「人斬りジム」を路上に押さえつけ、花形敬が顔面に蹴りを入れ続けた。「人斬りジム」が動かなくなると、花形敬と佐藤昭二は、安藤昇に挨拶に行った後、渋谷警察署に自首した。同年5月20日、このときの傷が原因で破傷風にかかった「人斬りジム」が死亡した。花形敬は裁判で正当防衛を主張したが、認められなかった。花形敬は余罪の追及も受け、懲役4年の実刑判決を受け、宇都宮刑務所に服役した。佐藤昭二は執行猶予となった。

同年、志賀日出也が、下北沢グループに加入した。

このころ、安藤昇は、渋谷区宇田川町に「東京宣伝社」の看板を掲げ、舎弟たちにパチンコの景品買いやサンドイッチマン、靴磨きなどを取り仕切らせていた。

安藤組(東興業)解散まで
1952年(昭和27年)7月、安藤昇は、東京都渋谷区宇田川町に、株式会社東興業(通称:安藤組)を設立し、正式に登記した。登記上の業種は、不動産売買と興行だったが、裏では水商売の用心棒なども行っていた。母体となったのは、下北沢グループだった。専務には志賀日出也、営業部長には花田瑛一、参謀に島田宏が就いた。設立当時、幹部が13人、それぞれの幹部に属する準幹部が26人、直属配下が70人だった。また、下北沢グループの流れをくむ組員が200人いた。組員には安藤組のバッジを配布した。安藤組のバッジのデザインは、黒地に、アルファベット「A」の文字を金色で浮き立たせたもので、幹部はそれを三重、準幹部は二重、他は一重の丸で囲んで区別した。幹部と準幹部は、グレーのベネシャンのスーツに、黒色のネクタイを制服とした。刺青や指詰めを禁止した。組員が使用する拳銃は、米軍用コルト45口径に統一した。上級者には絶対服従を徹底した。

同年、安藤昇は、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から、落合一家・高橋岩太郎総長を紹介された。安藤昇の兄貴分が、小林光也(通称:小光)で、小林光也の兄貴分が万年東一だった。安藤昇は、高橋岩太郎から、博打のテラの取り方などを学んだ。

1953年(昭和28年)、安藤組は、高橋岩太郎の舎弟・武田一郎率いる渋谷のテキヤ武田組(飯島連合会系)と小競り合いを繰り返していた。白昼に路上で、両組の若衆同士が乱闘を起こし、互いに相手方の事務所に殴り込みをかけた。武田組は、安藤組の地下事務所にガソリンをまき、火を付けようとした。安藤組組員が武田一郎宅に実弾3発を撃ち込んだ。同年、安藤昇は、東興業の事務所を、渋谷区上通り4丁目のビル3階に移した。事務所は10坪。社長室は8坪で、緑色の絨緞を敷き詰めていた。社長室の窓際には、丸い鳥かごが置かれ、紅いカナリヤが飼われていた。このころから、安藤昇は賭博を開帳し始めた。毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。

同年4月8日、安藤組幹部・野田克己がモルヒネ中毒で死亡した。

同年、国学院大学学生の西原健吾が安藤組に加入した。

昭和29年(1954年)6月、花形敬は模範囚として、宇都宮刑務所を出所した。

1955年(昭和30年)、渋谷宇田川町に、キャバレー「純情」がオープンした。安藤組に挨拶がなかったことから、花形敬が「純情」に赴いた。花形敬が「純情」のマネージャーを脅すと、店内から用心棒の力道山が出てきた。両者は激しく睨み合った。力道山が先に折れて店内に消えた。花形敬は、店内に入り、店内にいたプロレスラーたちのテーブルをひっくり返して、そのプロレスラーたちに「力道山と翌日3時に銀座の資生堂で話し合いたい」と云う旨に伝えてから引き上げた。翌日力道山は資生堂に現れなかった。花形敬から報告を受けた安藤昇は、力道山襲撃を計画した。安藤組組員が力道山の自宅近くに待機していたが、力道山は帰宅しなかった。プロレスラーの東富士(元横綱)の仲介で、安藤組と力道山は和解した。

1956年(昭和31年)、安藤昇は、東京赤坂に、赤坂支店を開設した。支店長には、東興業専務・志賀日出也を据えた。

1957年(昭和32年)、武田組組員と安藤組組員が揉めた。武田組・武田一郎組長の親分は、関東尾津組・尾津喜之助組長だった。翌日午前6時ごろ、安藤昇は、2丁の拳銃を所持し、志賀日出也とともに、新宿の尾津喜之助の自宅に赴いた。安藤昇は、武田組との抗争の件で、直接尾津喜之助のもとに掛け合いに来たことを告げた。尾津喜之助は、安藤昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は安藤昇の行動に立腹した。翌日、高橋岩太郎と小林光也は、尾津喜之助宅を訪れて、尾津喜之助に安藤昇の行動を謝罪した。尾津喜之助は、安藤昇の要求を認めていた。高橋岩太郎は、尾津喜之助に、安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案した。尾津喜之助は、高橋岩太郎の提案に賛成した。その後、安藤組と武田組は、池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津喜之助の兄弟分・極東関口初代の関口愛治を見届人として、手打ちを行った。

1958年(昭和33年)2月17日、酔った花形敬が、石井福造の配下の牧野昭二を殴打した。同日深夜、牧野昭二は、石井福造のアパートを訪れ、石井福造に事の経緯を説明し、花形敬襲撃を訴えた。牧野昭二は、石井福造のアパートを出てから、花形敬を探して、渋谷を徘徊した。同日、牧野昭二は、花形敬と遭遇し、拳銃で花形を撃った。一発が花形敬の左手指を貫通し、一発が花形の腹部に命中した。花形敬は、タクシーを拾い、伊達外科病院に入った。4ヶ月以上の入院治療が必要な傷だった。花形敬は傷の手当だけ受けると、病院を抜け出し、牧野昭二を探し回った。花形敬は牧野を探し回りながら、酒を飲み、夜明け前には女を連れて宇田川町の「岩崎旅館」に入った。翌2月18日昼、花形敬は安藤昇から東興業事務所に来るように云われた。花形敬は、安藤昇から事の経緯の説明を求められたが、無言を押し通した。両者の対立は、安藤昇の兄弟分・加納貢が仲介して収まった。

同年6月、安藤昇は、三栄物産代表取締役・元山富雄から、「昭和25年(1950年)に蜂須賀元侯爵が、年2割金利で東洋郵船社長横井英樹に3000万円を貸し付けた。3000万円のうち2000万円が未払いになっている。蜂須賀元侯爵夫人が訴訟を起こして最高裁で勝訴したが、1年を過ぎても横井英樹からの支払いがない。横井英樹から2000万円を取り立ててほしい」との依頼を受けた。同年6月11日午後3時、安藤昇は、元山富雄とともに、銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れ、横井英樹と交渉した。横井英樹は支払いを拒否した。同日、午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役)が、東洋郵船本社の社長室に押し入り、東洋郵船社長・横井英樹を、ブローニング32口径の拳銃で1発銃撃した。横井英樹は、右腕から左肺と肝臓右を貫通し右わき腹に達する銃弾を受け、意識不明の重体に陥った。千葉一弘は逃走した。警視庁は横井英樹恐喝容疑で、安藤昇を全国指名手配した。同年6月16日夕方、花形敬にも逮捕状が出され、花形敬は逮捕された。同年7月15日、安藤昇と安藤組大幹部・島田宏が、神奈川県葉山町の別荘で逮捕された。同年7月22日、千葉一弘と東興業専務・志賀日出也が、山梨県内で逮捕された。7月23日、小田原郁夫が自首した。同日北海道旭川市内で、安藤組大幹部・花田瑛一が逮捕された。右翼の佐郷屋留雄が横井英樹を説得し、「減刑嘆願書」を取り付けた。同年10月31日、安藤昇は懲役8年、志賀日出也は懲役7年、千葉一弘は懲役6年、島田宏は懲役2年、花形敬は懲役1年6ヶ月、花田瑛一は懲役1年6ヶ月、小田原郁夫は懲役1年の実刑判決を受けた。安藤昇は中野分類刑務所に、志賀日出也と島田宏は胸部疾患のため八王子医療刑務所に、花形敬は宇都宮刑務所に、花田瑛一は網走刑務所に収監された(横井英樹襲撃事件)。

同年11月、横井英樹襲撃事件を契機に、警視庁に暴力取締りのための専門捜査機関・刑事部捜査四課(通称:マル暴。現:組織犯罪対策部)が設置された。

1959年(昭和34年)2月9日早朝、安藤昇は、中野分類刑務所から前橋刑務所に移された。

1961年(昭和36年)4月、花形敬は宇都宮刑務所を出所した。花形敬が組長代理となった。

1963年(昭和38年)8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉め、乱闘になった。その場を、東声会組員・小川が仲裁した。仲裁の仕方で、安藤組・田中と東声会・小川が揉めた。安藤組田中は、舎弟2、3人とともに、東声会・小川を、旧陸軍練兵場・代々木の原に呼び出し、登山ナイフで、東声会・小川の顔を18ヵ所と体を3ヶ所斬った。安藤組・田中たちは、事件を花形敬に報告した後、警察に自首した。花形敬は、小林光也に相談した。小林光也は、東声会副会長・平野富士松と昵懇だった日本大学役員・工藤に、とりなしを依頼した。日大役員・工藤は、平野富士松に電話した。平野富士松は、日大役員・工藤に、神戸に所用があるため、東京に戻り次第連絡すると返答した。日大役員・工藤は、平野富士松から連絡があり次第、花形敬に連絡することを、小林光也に約束した。

同年9月24日、花形敬と安藤組幹部・佐藤昭二は、安藤組事務所で、高橋岩太郎にも、東声会との揉め事を相談した。高橋岩太郎は、花形敬と佐藤昭二とともに、神田の日大に赴き、日大役員・工藤に会った。日大役員・工藤は、まだ平野富士松から連絡がないことを話した。同年9月26日、高橋岩太郎は、高橋の舎弟から、高橋の兄貴分・渥美幸一郎の伝言を聞いた。伝言は、至急洲崎の渥美幸一郎の自宅に来るように、とのことだった。高橋岩太郎が、渥美幸一郎宅を訪れると、渥美幸一郎から「花形敬が岡村吾一に一物あるのか確かめて欲しい」との依頼を受けた。渥美幸一郎は、岡村吾一の舎弟だった。翌同年9月23日、高橋岩太郎は、花形敬に会って確認した。高橋岩太郎は、渥美幸一郎に「花形敬が岡村吾一に詫びを入れたいと云っている」と伝えた。岡村吾一は、渥美幸一郎から話を聞くと、改めて詫びに来なくてもいいと云う旨を、渥美幸一郎を通じて、花形敬に伝えた。同年9月27日午後10時ごろ、高橋岩太郎は、渥美幸一郎から、再度呼び出しを受けた。高橋岩太郎は、渥美幸一郎の自宅で、渥美幸一郎から、すでに平野富士松が東京に戻ってきていることを聞かされた。高橋岩太郎は、渥美幸一郎から、岡村吾一の伝言も聞いた。岡村吾一が花形敬に、東声会への見舞金30万円を用意し、渥美幸一郎と高橋岩太郎に、安藤組と東声会を仲裁するように指示していた。高橋岩太郎は、安藤組に電話をかけたが、花形敬は5分前に安藤組を出ていた。花形敬は、安藤組を出た後、新宿のクラブで、知り合いと酒を飲んだ。その後、花形敬は、友人と別れ、黒のルノーを運転して、神奈川県川崎市二子の多摩川の土手近くの自宅アパートに向かった。

同年9月27日午後11時15分ごろ、花形敬は、神奈川県川崎市二子56の料亭「仙寅」前の路上で、東声会の刺客2人に刺殺された。享年33。目撃者2人が、東声会の刺客2人を追跡した。東声会の刺客2人は、約150メートル離れた多摩川土手沿いの行政道路上に待たせてあった黒塗りの乗用車に乗り込んだ。乗用車には運転手が待機していた。乗用車は、拳銃を発射しながら、二子橋方面に逃走した。目撃者の1人が、腹部貫通の銃弾を受け、重体となって、近くの溝ノ口病院に搬送された。

その後、花形敬の妻から安藤組に電話があり、花形敬が刺殺されたことが伝えられた。佐藤昭二たちが川崎市高津警察署と病院に向かった。翌9月28日午前2時すぎ、高橋岩太郎は、渋谷代官山の自宅で、佐藤昭二から電話を受け、花形敬が刺殺されたことを知った。高橋岩太郎は、若衆の運転する車で、青山の安藤組事務所に向かった。高橋岩太郎は、報復に走ろうとする安藤組組員を抑えた。

同日、花形敬の遺体は家族に引き取られ、東京都世田谷区経堂の実家で通夜が営まれた。同日午後8時、高橋岩太郎は、佐藤昭二に案内されて、花形敬の通夜に行った。花形敬の母が、安藤組組員に対して、花形敬の報復をしないようにお願いした。

1964年(昭和39年)9月15日午前6時、安藤昇が仮釈放され、前橋刑務所から出所した。その後、志賀日出也も出所した。

同年11月6日、西原健吾の舎弟・小池が渋谷区宇田川町のバーで、錦政会(後の稲川会)会員と喧嘩になった。同年11月7日午前5時50分、レストラン外苑で、西原健吾と矢島武信が錦政会側と話し合いを持ったが、2人は錦政会会員に襲われた。西原健吾は三発の銃弾を受けて死亡し、矢島武信は日本刀で頭を切りつけられて、重傷を負った。

同年12月2日、安藤昇は千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行い、安藤組を解散した。「安藤組解散式」には高橋岩太郎が出席し、佐郷屋留雄が来賓として招かれた。

安藤組(東興業)解散後
1965年(昭和40年)、俳優に転向。短身だがその端整な顔立ちと有名な元暴力団組長という類を見ない経歴から、数々のヤクザ映画に出演、人気を博し松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持った。主題歌を歌いレコードも数枚出した。ただし、俳優となった後も暗黒街との交流は続いていた。友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕された。

1970年(昭和45年)、安藤昇は、五社英雄監督のテレビ時代劇「新・三匹の侍」に主演した。

1974年(昭和49年)、東映配給・五社英雄監督の映画「暴力街」において、安藤昇は江川紘一役で主役を務めた。五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社英雄が自分の映画への出演を安藤昇に打診していたからである。

1979年(昭和54年)、「総長の首」出演を最後に俳優を休業。現在は ごくたまにVシネマに出演する程度で、専ら文筆活動の方に勤しんでいる。

[映画出演作品]

製作
1966.01.15 望郷と掟  松竹=CAG  ... 企画
1974.11.01 安藤組外伝 人斬り舎弟  東映東京
1976.10.16 やくざ残酷秘録 片腕切断  安藤企画
1988.09.03 疵  ユピテル・コミュニケーションズインター
1988.12.17 恋子の毎日  東映東京  
1990.05.12 ふうせん  東映東京  ... 企画
1993.11.13 修羅の人間学 東北新社=東映ビデオ=東映
1998.04.10 疵 血の黙示録 (V)  東映ビデオ  
1998.06.12 疵 血の黙示録2 (V)  東映ビデオ  
1998.10.09 疵 血の黙示録3 (V)  東映ビデオ  
1998.12.11 疵 血の黙示録4 (V)  東映ビデオ  
2000.05.06 安藤組外伝 掟  ミュージアム  
2001.01.12 疵5 血の鎮魂歌 (V)  東映ビデオ  
2001.12.07 実録・安藤組外伝 地獄道 (V)  真樹プロ=エクセレントフィルム  
2002.04.13 実録・安藤組外伝 餓狼の掟  東映東京撮影所
2002.09.21 実録・安藤昇侠道伝 烈火  東映ビデオ

監督
1976.10.16 やくざ残酷秘録 片腕切断  安藤企画
2002.09.21 実録・安藤昇侠道伝 烈火  東映ビデオ
1965.08.29 血と掟  第7グループ
1965.11.20 逃亡と掟  CAG
1969.07.26 やくざ非情史 刑務所兄弟  創映プロ
1972.09.29 やくざと抗争  東映東京
1973.03.03 やくざと抗争 実録安藤組  東映東京
1973.12.01 実録安藤組 襲撃篇  東映東京
1974.11.01 安藤組外伝 人斬り舎弟  東映東京
1998.06.27 安藤組外伝 群狼の系譜  オフィス中条=アーバンタイムス
1999.05.14 安藤組外伝 群狼の系譜3 (V)東映ビデオ
2000.02.11 安藤組外伝 群狼の系譜4 (V)東映ビデオ
2000.05.12 安藤組外伝 群狼の系譜5 (V)東映ビデオ

出演
1965.08.29 血と掟  第7グループ
1965.09.30 やさぐれの掟  CAG
1965.11.20 逃亡と掟  CAG
1966.01.15 望郷と掟  松竹=CAG  ... 相良
1966.03.05 炎と掟  松竹大船
1966.07.15 男の顔は履歴書  松竹大船  
1966.10.15 阿片台地 地獄部隊突撃せよ ゴールデンぷろ
1966.12.24 男の顔は切札  日本電映
1967.02.11 白昼の惨殺  ゴールデンぷろ
1967.02.25 懲役十八年  東映京都  ... 川田章
1967.05.03 侠客道  東映京都
1967.06.17 日本暗黒史 血の抗争  東映京都  
1967.06.29 続組織暴力  東映東京
1967.08.26 ギャングの帝王  東映東京
1967.10.21 懲役十八年 仮出獄  東映東京
1967.12.23 網走番外地 吹雪の斗争  東映東京
1968.01.14 日本暗黒史 情無用  東映京都  
1968.05.14 密告  東映東京
1969.07.08 日本暴力団 組長  東映東京
1969.07.26 やくざ非情史 刑務所兄弟  創映プロ
1969.09.06 組織暴力 兄弟盃  東映東京
1969.10.08 やくざ非情史 血の盃  創映プロ
1969.10.18 昭和やくざ系図 長崎の顔  日活
1970.02.21 やくざ非情史 血の決着  創映プロ
1971.01.12 博徒外人部隊  東映東京
1971.06.01 懲役太郎 まむしの兄弟  東映京都
1971.08.13 新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬 東映東京
1971.10.01 まむしの兄弟 お礼参り  東映京都
1971.10.30 出所祝い  東京映画
1971.12.17 関東テキヤ一家 浅草の代紋  東映京都
1971.12.29 新網走番外地 吹雪の大脱走  東映東京
1972.04.14 ギャング対ギャング 赤と黒のブルース 東映東京
1972.05.06 現代やくざ 人斬り与太  東映東京
1972.09.29 やくざと抗争  東映東京
1972.12.30 昭和残侠伝 破れ傘  東映東京
1973.03.03 やくざと抗争 実録安藤組  東映東京
1973.07.04 実録 私設銀座警察  東映東京
1973.10.27 現代任侠史  東映京都  ... 栗田光男
1973.12.01 実録安藤組 襲撃篇  東映東京
1974.03.30 非情学園ワル ネリカン同期生  東映東京
1974.04.13 暴力街  東映東京  ... 江川紘一
1974.06.01 唐獅子警察  東映京都  ... 栗原友雄
1974.08.10 三代目襲名  東映京都  ... 菅谷政雄
1974.09.14 あゝ決戦航空隊 東映京都  ... 関根賢
1974.10.09 無宿  勝プロ  ... 斐川仙蔵
1974.11.01 安藤組外伝 人斬り舎弟  東映東京
1974.12.28 新仁義なき戦い  東映京都  
1975.02.15 仁義の墓場  東映東京
1976.05.29 任侠外伝 玄海灘  唐プロ=ATG
1976.10.01 安藤昇のわが逃亡とSEXの記録 東映東京
1979.03.24 総長の首  東映京都  ... 花森庄造
1988.06.11 極道渡世の素敵な面々  東映東京
1997.03.15 実録 新宿の顔2 新宿愚連隊物語 ムービーブラザース  
1998.04.10 疵 血の黙示録 (V)  東映ビデオ
1998.06.12 疵 血の黙示録2 (V)  東映ビデオ
1998.10.09 疵 血の黙示録3 (V)  東映ビデオ
1998.12.11 疵 血の黙示録4 (V)  東映ビデオ
2000.05.06 安藤組外伝 掟  ミュージアム
2001.01.12 疵5 血の鎮魂歌 (V)  東映ビデオ
2002.04.13 実録・安藤組外伝 餓狼の掟  東映東京撮影所  

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開設日
2004年10月5日

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