先行きも不透明な時代のまっただなか、とらえどころのない不安にさいなまれながら、自分の人生をどう生きるべきか、人々は霧のなかを手探りで進んでいます。
生きる価値と生きる手がかりを自分の外に求め、いつも満たされない自分を発見して、「なぜ自分は満たされないのか」「なぜ自分は幸福になれないのか」「なぜ自分は生きている充足感を味わえないのか」と、他人との比較に毎日をすごしがちです。
そんないま、世代を越えて人気のある写経。書店には写経教本がならび、各地の寺院では写経会が開かれ、インターネット上では写経用品販売専門サイトまであります。
心のよりどころを求めて、身近になった般若心経の英知に光明を見いだし、それを実践する人が近年いかに増加してきたかが見てとれます。
写経をありがたがる人は大勢います。写経を何千巻やったという成果を功徳とする人もいます。写経をそれだけ積み重ねていくことは並大抵の決意ではできませんし、その努力には誰もが一様に尊敬の念を抱くものでしょう。事実、写経によって平穏な心を取り戻せたり、写経によって難事から救われたという人も数知れずおられることでしょう。
しかしながら、まだ不平不満が口をついて出てきたり、日々の中で喜びを感じ得ない状態があるとすると、果たしてその教えを本当の意味でわがものにできていると言えるでしょうか。
「いま満足できていますか」「生活は変わってきていますか」──こうした単純な問いに、前向きな返答が果たしてどれだけ得られるでしょうか。
人間とは本来、幸福に満たされるように、この世に生まれてきています。しかしながらその幸福は、求めて得られるところにはありません。美しい理想を説く哲学書のなかにもありません。いくら周りを捜しても、発見することはできません。ただ、そのことに気づいていないだけなのです。「あなたの幸福はあなたのなかにある。もうあなたは幸福を手に入れている」のにです。「幸福」は、あなたに磨かれるために、あなたのなかでひっそりと眠っているのです。
人間とは悲壮な存在などではありません。
この「超写経」サイトでは、皆さんと一緒に、“写経を超えた写経”の実践体験を通じて、その明確な答えを導き出していきます。
自然界の営みに目を向けてみましょう。
太陽は、ただ昇り、ただ沈んでいきます。きまぐれを起こして昇らないこともなければ、沈まないということもありません。
雨や雪で太陽が望めない日はあっても、やはり太陽は昇り、沈んでいます。それは、人類誕生以前からの、一日として変わらない大自然の営みです。
植物も同じです。春に芽を出し、夏に栄養を蓄え、秋に実をつけ、そして冬を耐えます。桜であれば、春になれば花を開きます。そして散り、また翌年の春に花を咲かせます。四季の繰り返しのなかで、すべての動植物の営みも、繰り返されます。
その繰り返しのリズムのなかで、植物は動物を養い、動物もまた、植物に肥料を与え、花粉を運び、種を遠く運ぶなどして新しい生命を育んでいます。
大自然は、決して「見返りを求めることなく」「ただ繰り返す」というリズムから成り立っており、ふだんは気にもとめていないその「当たり前のリズム、法則」によって、私たち人間もまた生かされています。
このリズム、法則というのは、すなわち別の言葉で言えば「約束ごと」です。人間の知識経験の集積がつくった法律や常識ではなく、もともと厳然と存在する大自然の約束ごとです。ひとことで言えば、それは「ただ繰り返す」ということになります。
自然の法則とは、この天地大自然のすべてを動かしている真理とも言えるものであり、宇宙のすべてにびっしりと隙間なく満たされているのです。
言うまでもなく、人間は生命体です。生命というエネルギーがなければ、生きていません。それが「死」ということです。
これは、動物でも植物でも同じです。生命というエネルギーを失えば、同じように死を迎えます。地球上の生きとし生けるものは、みなエネルギー体なのです。
宇宙に目を向けてみましょう。太陽系をはじめ、さまざまな銀河や星々がこの宇宙には存在しています。それらは宇宙が誕生してから、規則正しいリズムで動いています。互いに引力というエネルギーで引き合いながら、その調和のとれた状態を保ってきています。
宇宙もまた、エネルギーに満ち満ちた世界なのです。
私たちの目に見えているものも、エネルギー体です。目に見えている姿は本質ではありません。それはエネルギーの結果として、いま目の前にある形をとっているにすぎないのです。
物質とはなにか、という問いを突きつめていくと、原子核と電子で構成されている粒子の集合体というところにたどりつきます。簡単に言ってしまえば、物質とは電磁気をともなったエネルギー体ということです。
目に見える世界、物質はエネルギー体の世界です。目に見えない世界もエネルギーが満ちています。この宇宙全体は一つのエネルギー体だといえるのです。この空間にはエネルギーが満ちているのです。
それが繰り返しのリズムを刻ませます。
そして、その自然の繰り返しのリズムに則っているときにこそ、すべての生あるものは命の歓喜を味わうことができます。
このリズムを忘れて生きていれば、当然「苦悩しなければならない自分」となって、せっかく「人間はもともとよろこびの表現体」でありながら生命の観喜を味わえなくなってしまいます。しかし、このリズムに則っているときは、苦悩を必要とせず、よろこびに満ちた生活を味わうことができるのです。
すべてのものが、あらゆることが、本来の姿で生かされている状態。あたりまえのことをあたりまえと感じ、あたりまえの存在としてあたりまえに生きること。そうした状態にあるとき、人間は無条件に「幸福だ」「うれしい」と感知できるのです。
人間の体の断面をイメージしてみてください。腸はパイプですし、血管もパイプです。パイプが縦横に体内を走り、人間の肉体を形づくっています。
パイプはものを流すためにあります。その流れを止めると、うっ積していき、苦しみが始まります。病も発生します。考え事をしていて出口が見えなくなると、人はよく「つまった」という表現を用いますが、流れるべきものが流れないという状態は、つまり、自分を強く意識するということ、なにかこだわるということです。
お金にこだわればお金の流れが止まります。意識にこだわれば、極端な場合、精神に異常をきたすことになります。名声にしても、地位にしても、美ぼうにしてもそうです。それらにこだわり、自分のところに止めようとする、握っていたいと思います。そうすると、苦しみが始まります。「苦」というものは、すべてそこに止まっているから生まれるものです。
「願う」「求める」「頼る」という心理も、この「意識すること」「こだわること」にあてはまることを知っておきましょう。形式に制約があればあるほど、そうした心理はなおさら強くなります。
このように、人間がパイプであることを忘れたときから、苦しみが始まります。
逆に、流れのままに生きる、生きていることに感謝できる、そのような状態になると、自然といろいろなものがわいてきます。泉のように、いいことも悪いことも、次から次へとわいてきます。
しかし、かまわずにどんどん流します。そして、流していることすら忘れて超越した状態が「空」の世界となります。
これが「般若心経」に託された真髄だったのです。
しかし、「空」になろうと思っては「空」になれなません。「なろう!」と思うと、流れが止まります。意識する自分がそこにいるからです。
流れを止めるもの。それが、「願い、求め、頼る」気持ちです。
従来の写経の限界は、神仏に求め、願い、頼み、知識の集約としてのお経を書き写すことにあります。自分の願いや頼みを実現するために、ご利益を得るために、お経を対象物にしてしまっては、「般若心経」を正しく活かしていることにはなりません。
「般若心経」は本来、自然のなかに生かされる人間の本来の姿を説いたものであり、そうなるために活用されるべきものであったはずが、時代の流れのなかで、いつしかそれを頭で解するだけの、ただのお経に仕立てあげられてしまいました。宗派によっても連綿と受けつがれる過程で教義が曲解される例はよくあることです。
書店に行けば「般若心経」の解説書が所せましと並べられています。それらも解釈のひとつにしかすぎないにせよ、それらを読めば、釈迦の説いた「般若心経」のおおまかな意味はわかるでしょう。
このサイトでは、「般若心経」につづられた文字の意味を追求する必要はまったくありません。その内容を知ったからといって、そう成れるわけではないからです。逆に、知れば知るほど、そうではない状況に苦悩が強くなっていってしまいます。
釈迦は、般若心経の意味を「理解しなさい」と言いたかったのでしょうか。それとも、そのように「成りなさい」と言いたかったのでしょうか。
決して想像に難くありません。
あなたがこれから実践される「超写経」とは、釈尊教典の最も優れた「般若心経」を知識として得る〈心のお経〉から、生活に活かす【心の行】とし、既存の形式にこだわることなく、願ったり、求めたりせず、大自然の大いなる営みのように「ただ繰り返し」、私たちがこの叡知を体現していける「行(ぎょう)」を行うものです。そして日常生活のなかで「般若心経」の知恵を表現している人間となるために、「行」を、かけひきなしにただ繰り返すなかで、それは【天の行】となり、大自然のリズムと初めて調和できます。
天とは、この大自然そのもの、心臓をただ動かしている大自然、太陽をただ動かしている大自然、この大宇宙をただつくっている大自然のことを指します。
この「般若天行〜はんにゃてんぎょう」が自分のものになることによって、大自然のリズム、大自然の法則と調和したとき、生活もそのように変わっていくのです。
この「変わる」というのは、「正常になる」ということです。「正常になる」ということは、「本来の状態に戻る」ということです。
「般若心経」を「知る」ことではなく、「般若心経」そのものに「成る」ことが目的なのです。願い求めることは、自分にこだわること、自分を握ることになってしまい、「般若心経」に説かれている人間本来の姿を表現することを妨げます。だから、理屈抜きに「行」を繰り返す。自分の生活のなかで、繰り返し行う。それがすべてであり、それで十分なのです。
このように、「超写経」のコンセプトは、道を求める仏教者のそれではなく、この現世にあって、生身の世の中にあって、大自然のリズムに帰ることで、毎日が楽しく、繁栄に満ち、生きていることに感謝できる、自然に感謝している自分になることに尽きます。
もしあなたが、この自分を変えるために、もっと良い運気をつかむために、巷にあふれるノウハウを試みるのは、この自然のリズムをつかんだ後でも遅くはないはずです。いえ、自然のリズムさえつかむことができたなら、どんなノウハウをも活かせるあなたになっているはずです。
もちろん、人間ですから、超写経を始めても最初のうちは、「お金がない」「病気が治りたい」というようなことが気になるでしょう。しかし、それはそれとして、ひたすら繰り返すことが大切です。
「生かされている」ことを素直に喜ぶ。落書きでもするように、ただただひたすら書きつづける。
そうすれば、いつの間にか、体のなかにあるものが出てくるようになります。
それは、ただ繰り返し行っているうちに、大自然とリズムが合ってくるからです。大自然の法則とは「ただ繰り返す」ですから、ただ「般若天行」を繰り返していると、その大自然の法則と合ってきます。あなた自身が大自然そのものとなるのです。
大自然とリズムが合えば、いつの間にか、体のなかから無性に「喜び」がわいてくるようになります。
写経や般若心経と聞くと、信仰の世界でご利益という言葉を強くイメージさせられます。
一般的には、地獄・極楽は死後の世界のことと考えられています。おどろおどろしい絵図も描かれていますし、現世での行いが悪いと地獄に落ちて救われないと教える人もいます。
それを信じ、その不安を消すために、死んでから極楽に行けますようにと、お経を読んだり、お祈りしたりもします。
実は、これだけお祈りしたから、これだけ善行をしたから、どうか地獄に落とさないでくださいと要求すること自体が、誤りなのです。こうしたことで極楽を得ようとすればするほど、瞬間瞬間が苦しみに変わってしまいます。
地獄・極楽というのは、死後の世界だけにあるのではありません。まさに、いま生きているこの世のなかにもあるのです。
地獄というのは、苦を味わって生活する状態をいいます。
たとえば、肉体的な面から苦を刻む人がいます。はたから見れば手や足が不自由に映ったり、重病を患い肉体に後遺症が残ってしまったなど、こうした人が、その苦しみを日々味わいながら生きているとすると、これは地獄になります。
逆に、肉体的にも社会的にも恵まれているのに、地獄をさまよっている人もいます。
お金はある、社会的地位もある。しかし、喜べない、生きている喜びがない。不平不満が尽きることがない。決して困窮した生活ではないのに幸福感がまったく感じられない。尽きることのない不平不満が、いつもいつも苦を刻んでいる。これはまさに地獄というべきものでしょう。
極端な例ではありますが、お金はそれほどない、地位もない。住んでいる家も賃貸アパート。おかずが一品しかなく、それをみんなで分けあって食べていても、満足感に満ち、それを喜びと感じられる生活。これが極楽なのです。
他人から見れば、貧しい生活と映るかもしれませんが、本人が苦でなければ、それは極楽です。
では、この世の地獄から遠ざかる道はあるのでしょうか。
それは、苦を刻む生活から脱することしかありません。病気の人は、たいていの場合は苦を刻んでいると言えるでしょう。「病気があるから、生きるのが辛い」と思っています。「この病気さえなくなったら、明るくなれる」と思っています。しかし、そうではないのです。明るくなったら、苦を刻まなくなったら、病気は去っていくのです。「苦しい」と思ったときは地獄、「楽しい」と思ったときは極楽なのです。
地獄・極楽は私たちのなかにあります。
超写経」は、場所も道具も問いません。喫茶店であろうと、オフィスであろうと、机であろうと畳の上であろうとかまいません。従来の写経のように、墨を使い、毛筆でなければならないというような制約もありません。ボールペンで簡単に書きすすめます。
写経の本を見ると、墨のすり方から始まり、筆の持ち方、筆の濡らし方、筆の先の方向と目線の位置、写経の際のマスクのかけ方まで指導されています。写経する人の息がかかると、ありがたいものが汚れてバチがあたるというのです……。さらには、墨をするときの墨の回し方で、ご利益が違ってくるといいます。すがすがしい環境も必要で、部屋のドアを少し開けて、庭の朝風がサッと入ってくるような環境が望ましいといいます……。
人々はおそらく、形式ばった書道をするために写経を始めたわけではないでしょう。字を間違えないように肩がこるほどに緊張し、うまく書けた、うまく書けなかった、この字のこの部分はすばらしい……などと評したところで、「喜び」などわいてくるはずもありません。かえって、そこにあるのは「苦」です。
「超写経」は、姿や形にとらわれず、「いまを生かされていることを素直に喜び」ながら行います。それも、ただひたすら繰り返します。
そうすると、いつの間にか、「書かずにはいられない自分」を発見することになります。それが「喜び」がわき始めた状態なのです。
「書かなければいけない」と言われて書くのが信仰の写経です。これに対し、「書かずにはいられない」のが「超写経」なのです。
形式にいっさいこだわらず、俗にいわれるような「無心の構え」も必要とせず、頭の中にどんな雑念がおころうとも気にせず、ただ、ただ、繰り返します。
これが自然に行え、なんとなく生活のなかにとけ込んできたとき、不思議とこだわりが取れ、素直になり、だんだんと身体や気持ちが楽になっていき、少しずつやる気がわいてきて、願わず求めずとも、いまあるがままで幸福を実感できる現実がそこにあるはずです。
「般若天行」が自分のものになってくる(本来の自然のリズムを取りもどす)と、目の前にいままでとは違う世界が拓けます。知らず知らずのうちに、いろいろな変化が周囲に起こります。
いままで口をきいたことのない人とも、親しく話をすることができるようになり、その人のすばらしさを発見することもできます。
これまで何度も出会っていながら、目に入らなかった人を発見できます。その人のすばらしさを見出すことができ、ふさわしい出会いもめぐってきます。
自分のなかのとげとげしい部分が消え、小さなもの、弱いものさえ、いとおしいものになってきます。
それまでちゅうちょしていた仕事にも積極的にとりくむこともできます。自然に早寝早起きする自分を発見して、驚くかもしれません。
「いま生きている自分」「生かされている自分」が、楽しくてしかたなくなります。喜びや楽しさを発散させている人は、だれが見ても気持ちよく、自然に近寄りたくなるものです。友人も、妻も子供たちも、あなたの明るい顔つきに魅力を感じることでしょう。
悩みは自分がつくり出していたことに気づき、自分でも驚くほどの自信と勇気がわいてきます。物事にとらわれたり、こだわったりしなくなった自分を発見できます。
これは、おかげでもなければ、ご利益でもありません。
これは、「あたりまえ」ということなのです。
「般若天行」が生活のなかにとけこんできた証拠です。