翡翠(ヒスイ)は宝石の一種で、東洋で好まれている人気の高い宝石です。
「翡翠」というのは“かわせみ”の雄と雌の意味で、
かわせみのように美しい色合いをしていることから、
この漢字が用いられました。
最大の産地は、ミャンマーと、実は日本の新潟「糸魚川」です。
昭和30年に天然記念物に指定されたため、指定地域での採取は禁じられています。
新潟県、糸魚川の翡翠を愛でようと言うコミュニティです。
【糸魚川翡翠の伝説】
古来より翡翠を身につけていると、魔除け・厄除けになると共に幸運を招く
『愛に満ちた幸せ』の石として珍重され最高の装飾・装身具として
愛用されてきました。
神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代に、
古志(越)の国《現在の新潟県糸魚川市近辺》頚城郡奴奈川郷を
「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ
霊力を発揮して統治していました。
この姫は「賢し女」「麗し女」と言われ、賢く美しかったので
遠く出雲の国まで聞こえていました。出雲の国の王である「大国主命」は、
この姫を嫁にするべくはるばる越の国までやってきて、
妻問いの後結婚をして一子をもうけました。
《このことは日本最古の書物である"古事記”の上巻に求婚の歌として
記されています》この子供が御柱の奇祭で有名な諏訪大社の祭神
「建御名方命」です。
三人は能登で暮らしていましたが姫は越に帰り、この地方
(越)に地盤を残して「大国主命と建御名方命」は出雲に帰りました。
このころ日本の中央では大和政権が力を伸ばし、日本の統治を目指して
出雲と交渉の結果国譲りが行われることになりました。
しかし「建御名方命」はこれに反対して大和朝廷と戦い”敗れて”
母の国まで逃げてきましたが、大和の追撃が激しく長野県の諏訪市まで逃れ
ここでついに大和朝廷と和解しこの地の祭神として祭られることとなりました。
出雲や大和が遠く古志(越)の国まで遠征してきたのも、
この地に産する翡翠を手に入れそれが持つ霊力によって
人民に対する支配をより強固にするためだったと思われます。
その証拠に仏教の伝来より後には急速に勾玉の価値が減じ、
ついには日本人の記憶の中から翡翠そのものが忘れられてしまっています。
昭和十年代の中頃、帝国大学の河野教授により
新潟県糸魚川市の小滝川から産出した石が翡翠の原石であると証明されるまでは、
日本各地の遺跡から出土する翡翠は中国から渡来したものと思われていました。しかし科学的検査の結果そのすべての物が糸魚川翡翠であると証明されました。その中でも出雲大社の神宝であるロウカン翡翠の勾玉は最高級品質で国の重要文化財に指定されています。
(NETより文章を引用させて頂きました)