本名 Joseph Gilles Henri Villeneuve (ジョゼフ ジル アンリ ヴィルヌーヴ)フランス系カナダ人
1950年1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近い小さな町リシュリューで生まれ、近郊のベルティエヴィルで育つ(レースキャリアへの影響を考え、プロフィールでは1952年生れと偽っていた)。フランス語を母国語とするフランス系カナダ人。青年時代までスノーモービル競技の選手で、氷の上に投げ出されながらバランス感覚を磨いた。スノーモービルでは弟ジャックとともにチャンピオンを獲得している。1973年から自動車レースを始め、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになる。当時のライバルはケケ・ロズベルグだった。
F1
1977年
フォーミュラ・アトランティックにゲスト参戦したジェームス・ハントの推薦でマクラーレンと契約し、 7月17日の第10戦イギリスGPでF1にデビューする(フェラーリ以外を駆ったのはこのレースのみ)。 この時の走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、フェラーリチームにスカウトされ、10月9日の第16戦カナダGPからは、チームとの確執から離脱したニキ・ラウダに代わって参戦する。
10月23日の第17戦日本GP(富士スピードウェイ)では、序盤に第一コーナーへの進入で前方のロニー・ピーターソンのティレルに追突。ヴィルヌーブのフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下するという大事故を起こす。マシンは大破し、ヴィルヌーブは奇跡的に無傷だったが、カメラマンとマーシャルの計2名が死亡、重軽傷者9名という惨事を招いた。
この悲惨な結果は、進入禁止エリアで観客が観戦し、警備員が再三の撤退を促していた中で起きたものである。しかし、当時日本ではモータースポーツへの理解が低かったこともあり、ヴィルヌーヴは過失致死の容疑で書類送検される事態となり、日本からの永久追放処分となった。この事故も一因となり、日本におけるF1開催はその後1987年に鈴鹿サーキットにて復活するまで、長きにわたり中断されることになる。また、ヴィルヌーヴは日本を含む各国のマスコミから激しい非難に晒されたが、エンツォ・フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」と彼を擁護した。
1978年
この年からフェラーリでフル参戦を開始。第4戦アメリカ西GPでは首位快走中にクレイ・レガツォーニのシャドウに追突し、再び物議を醸す。しかし、徐々に成績を上げ、第6戦ベルギーGPで4位初入賞。第12戦オーストリアGPで3位初表彰台を獲得。そして第16戦カナダGPにて、予選3位から念願の初優勝。記念すべきF1初勝利を地元モントリオールに新設されたサーキット・イル・ノートルダムで達成し、カナダ国民から祝福された。
当初、新人の抜擢に懐疑的だったフェラーリファン(ティフォシ)にも認められ、シーズン後にチームを放出されたのはエースドライバーのカルロス・ロイテマンの方だった。
1979年
競争力の高いマシンを駆り、生涯で最も成績の良いシーズンとなる。第3戦南アフリカGP、第4戦アメリカ西GP、第15戦アメリカGPの3勝を挙げ、タイトル争いに加わった(当時のF1は数回の優勝でチャンピオンになる事が多く、現在よりも接戦であった)。最終的にシーズン成績は2位となり、4ポイント差でチームメイトのジョディー・シェクターにチャンピオンを譲る事になるが、これには「エースドライバーのシェクターに対して、チームオーダーを忠実に守った結果」とも言われている。シェクターは「ジルがチームメイトでよかった。そうで無ければチャンピオンにはなれなかった(彼がチャンピオンを取っただろう、の意)。」と語っている。また、ヴィルヌーヴ本人は正直に「チャンピオンを取りたかった」旨のコメントを残しているが、あくまで自分がナンバー2という立場を貫き通した。シェクターのチャンピオンが確定したレース後、「シェクターのマシンが壊れることを祈ったよ(笑)」とコメントしている。
タイトルは逃したが、そのドラマティックな力走はモータスポーツファンを驚かせ、喜ばせた。第8戦フランスGPでは、ルノーのルネ・アルヌーとラスト3周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な2位争いを繰り広げた。このデッドヒートは、現在でも「歴史に残る名バトル」の1つとして語り継がれている。アルヌーは良き友人となり、ヴィルヌーヴの死後も息子ジャックのことを何かと気にかけてくれたという。
また、第12戦オランダGPでは、走行中にリアタイヤの損傷でスピンしながら三輪走行で激走。ピットでリタイアとなったが、マシンが走行不能の状態に追い詰められても決して諦める事のない闘志は、多くのファンを魅了した。この三輪走行は、ヴィルヌーヴを語る際に欠かせないとされるエピソードの1つである。
1980年
一転して苦難の年となる。グラウンド・エフェクトカーの車体構造においてフェラーリの水平対向12気筒エンジンの形状がネックとなり、他チームのマシンほどダウンフォースが得られないまま参戦。マシン自体もヴィルヌーヴが「ドライバーを守ってくれるほど頑丈なクズ鉄」と言い切ったほどの酷いものであり、入賞4回・表彰台無しと低迷する。しかし、ヴィルヌーヴの決して諦める事のない走りは観客に感銘を与えたと言われている。
チームメイトで前年のチャンピオン、シェクターも5位入賞1回のみで、予選落ちまで喫するスランプからこの年かぎりで現役引退を決意する。代わりにディディエ・ピローニが加入し、ヴィルヌーヴはフェラーリのエースドライバーに昇格した。
1981年
フェラーリはターボエンジンに移行するが、新車フェラーリ126CKは旧態なシャーシ設計が災いし、ヴィルヌーヴが「真っ赤なとっても速いキャデラック」と称すほど挙動が不安定なじゃじゃ馬であった。総合性能では他チームのマシンより低い状態だったが、それでもヴィルヌーヴは2回の優勝を記録し、超人的なドライビングテクニックを讃えられた。
第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチ単位でコントロールする走りで予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。1位ヴィルヌーヴから5位までのゴール時のタイム差は僅か1秒24で、「ヴィルヌーヴ・トレイン」と形容された。
また優勝ではないが、雨の中行われた第14戦地元カナダGPでは、レース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。ついにはノーズごと脱落しながらも、そのまま力走を続けて3位表彰台を獲得。次のシーズンが期待される事となった。
1982年、事故死
エンツォの肝いりにより、ハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーに迎えて作られた新車フェラーリ126C2は、他チームと遜色のないマシンに仕上がり、ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを目指す環境を手に入れた。序盤3戦はリタイヤや失格が続き、迎えた第4戦サンマリノGPでヴィルヌーヴはトップを走行し、チームメイトのピローニが背後に続いた。ピットからは「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味で"SLOW"のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースダウン走行に移った(この時、3位のミケーレ・アルボレートには1分近く差があり、フェラーリのワンツーフィニッシュは決定的であった)。
しかし、その指示を破ってピローニがヴィルヌーヴを追い越す。このレースは政治的な対立から多くのチームがボイコットし、出走がわずかに14台であった為、ヴィルヌーヴは当初これを「見所の減ったレースに来てくれた観客を喜ばす余興」と考え、トップを奪い返した。しかしピローニが最終ラップで再度抜き返し、裏切りに気付いたヴィルヌーヴはスピードを上げるが、結局2位に終わった。表彰式では、シャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、静かに、しかし激しい怒りを露わにするヴィルヌーヴの姿が見られた。元々ピローニはヴィルヌーヴには友情すら感じていたというが、ヴィルヌーヴはピローニをこの事件以降拒絶。仲は修復不可能なほど悪化してしまう。
続く第5戦ベルギーGP(ゾルダー・サーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、ヴィルヌーヴはピローニが自身の予選タイムを上回ったと聞くやいなや、予選アタックへと飛び出していった。タイム更新ならず周回を続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのマーチに遭遇。ヴィルヌーヴの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜くべくラインを変えたヴィルヌーヴは同じ方向(アウトコース)に動いてしまった。
この結果、ヴィルヌーヴは左フロントタイヤからマスに接触し、その右リアタイヤに乗り上げてしまう。時速230kmに達し、空中を舞ったマシンは路面に激突して150mも転がり、大破。この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれ、マシンから投げ出されたヴィルヌーヴはシートごとコース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院において蘇生処置が施されたが、頚椎その他を骨折したヴィルヌーヴは結局その日の夜9時過ぎに死亡した。享年32。この一部始終は蘇生処置まで含めて映像として残っており、自動車レースにおける最も悲惨で衝撃的な事故映像の一つとして、1983年の「ウィニング・ラン」、1987年の「グッバイ・ヒーロー」などの映画で紹介された。
ケベックで行われた葬儀には多数のF1関係者が参列し、ジョディ・シェクターが「彼が亡くなった事により、2つ悲しい事がある。1つ目は彼がF1史上最速のレーサーだった事。2つ目は彼が私が今までお会いした人の中で一番の純粋な男であった事だ。」と弔辞を述べた。遺体は荼毘に付され、第2の故郷ベルティエヴィルの墓地に棺の一部が納められた。