スーパーカートリオの一人で、西鉄、阪神、大洋に所属した加藤博一のコミュニティーです。
加藤博一氏の来歴(wikipediaから引用)
多久工業高等学校(現・佐賀県立多久高等学校)から1970年、テスト生で西鉄ライオンズに入団。二軍暮らしが続き、公式戦の出場は1972年の3試合にとどまった。この間にスイッチヒッターに転向した。
1976年に阪神タイガースの鈴木照雄と五月女豊(後述する大洋時代に同僚となる)との2対2の交換トレードで片岡新之介と共に阪神タイガースに移籍し、レギュラーに定着。1979年に阪神と因縁のある江川卓に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も初登板試合の江川から打ったものであり、翌年を含めて江川から3本の本塁打を放っている。
1980年、打率.314で打率ベストテンの5位に入るとともに広島東洋カープの高橋慶彦と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年・吉田義男以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった)。
1983年に野村収との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍すると2番打者に定着し、1985年には近藤貞雄監督の下、高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成。3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。1986年には17年目で初のオールスター出場を果たす。この頃に左打一本に絞った。
目立った数字は残せなかったものの、そのキャラクターでファンや選手に親しまれ、1990年まで21年間の現役生活を送った。
現役時代から「面白いキャラクターの野球選手」として有名で、プロ野球界オフの主役として『プロ野球ニュース』などにたびたび登場していた。大洋時代に同じ阪神OBである江本孟紀も出演するテレビ番組で「第2の江本孟紀を目指す」と繰り返し、江本がテレて苦笑する中で阪神時代から旧知の島田紳助に「加藤さんの場合は、江本さんではなく第2の板東さん!」と芸人としてのツッコミを受けたことがある。
1991年よりフジテレビの野球解説者を務めた。
短距離ヒッターであり小細工のきくタイプであるが、意外と大柄で180cm近くある。また、前述のように江川を比較的得意としており、時折打ち崩して存在をみせつけていた。
2008年1月21日午後0時54分、肺癌のため横須賀市内の病院で死去。享年58(56歳没)。
家族によると、2年前に肺がんと診断されがん治療のため入退院を繰り返しており、2007年2月には左肺を摘出していた。その後は回復し、『すぽると!』や『CSプロ野球ニュース』などで活躍していたが、左足大腿骨に癌が転移し、2008年1月に容態が悪化していた。戒名は釋博仁居士。
プロ生活16年間での通産成績
試合数1063試合
打数2321
得点342
安打630
二塁打93
三塁打22
本塁打23
塁打834
打点176
勝打点15
盗塁169個
盗塁死67
犠打95
犠飛7
四球179個
死球17個
三振361個
併殺打36
打率.271
長打率.359
出塁率.328
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