介護アドバイザーでRX組代表
「RXあおやま」こと青山幸広さんのコミュニティです。
【RX組ホームページ】
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【著書】
■ひとり浴改革完全マニュアル
施設のお風呂を変えるプロジェクト・湯
関西看護出版 (2006/09)
■力愛不二(りきあいふに)
介護に必要なもの、それは愛と力
雲母書房 (2003/11)
【プロフィール】 ※公式ホームページより
●1966年/青森県北津軽郡生まれ
4人姉弟の4番目にして長男。幼少時より出稼ぎで留守がちな両親に代わって祖父母に愛され育つ。本人も小学校卒業まで祖父母を親だと思っていた。体が小さくすぐにおなかをこわし学校は休みがちだった。学校を休んだ日は祖母と一緒に畑に行き、夜は祖父の炭焼き小屋で過ごしていた。器用な祖父を尊敬していた。
●1981年/青森県立中里高校入学
体は小さいがすばしっこく足が速くなっていた。
憧れのサッカー部に入部。部活が終わっても一人グランドに残りボールを追いかけていた。その努力が認められ一年生でレギュラーに選ばれたが、上級生や同級生のサッカー部員から妬まれ、いじめを受けることに。気弱な性格で、上級生にはむかえず、言われるがままのいじめを受け続け、練習もままならないようになっていく。
強くなりたいと切望し、部活が終わってから近くの少林寺の道場へ入門。そこで厳しい練習に耐え有段者となる。少林寺で県大会に出場した記事が地元新聞に載り、いつしかいじめは無くなり、サッカーも思い切りやれるようになる。
●1984年/同校卒業
同年/青森中央短期大学 幼児教育学科入
●1986年/同校卒業
同年/奥内保育園に保父として採用
●1989年/祖父の病気が悪化。保父を辞め、介護の道へ進むことを決意
●1989/母校青森中央短期大学介護福祉学科再入学
●1990年/介護福祉士免許取得
関谷外科病院勤務 国家資格の介護福祉士がまったく認知されていない時代で看護師と勘違いされ看護業務に回され、それが新たな勉強となる。
末期の祖父を見舞いながら、最期まで諦めない介護を祖母から学ぶ。
●1991年/同病院が老健開設 開設準備室配属
●1992年/開設と同時に介護主任として勤務
●1995年/2月「すべての利用者に平等に」という施設の理念に納得できず対立し、退職
左官・大工の手伝い、介護ベッドの組み立てアルバイト、警備員のアルバイトなどで生計を立てる。
三好春樹氏の「ブリコラージュ」という雑誌に出会い、セミナーに行き自分の考えが間違っていなかったことに納得し、新しい道を模索し始める。
神奈川県川崎市にある「生活リハビリクラブ」という民間のデイサービスにボランティアとして通う。生活を維持するために川崎市でタクシー乗務員として働き、明けの日をボランティアや施設見学に充てる。
タクシー乗務の仕事を通じて、お年寄りや障害者の人を乗せるトランスの実地勉強にもなった。後に同市で制度化される介護タクシーの提案もしていた。
●1998年/青森で世話になった介護機器の社長から新設老健の設計について相談を受ける。
青森に戻り、老健新設に着手。介護長として迎えられハード・ソフトなどそれまでのボランティア体験や施設見学してきたノウハウを生かすこととなる。
「おむつをしない」「機械浴に入れない」「閉じ込めない」「薬に頼らない」。今までの生活をできるだけ継続してもらえるよう、年寄りたちに振り回されることを第一とした介護を実践する。何年も寝たきりだった年寄りたちが、青山が施す介護技術とハードの整備で、次第に起き上がり歩けるようになり、自宅に帰れるようにまでなっていった。また痴呆で暴力を振るう年寄りたちも青山との関わりで、魅力溢れる年寄りへと変貌していった。
青山のこうした活動が次第に評判を呼び、見学・実習希望が続々と来るようになる。講師依頼、研修依頼が増え、青山はたくさんの施設に出向き研修するのだが、根本的にどこの施設も変われないことに気づく。
あるとき、青森を訪れていた三好さんにそんな悩みを相談。「現場に入ってそこのスタッフと一緒に変えていけばいいんじゃない?」
三好春樹氏のこの一言でフリーになることを決意
● 2001年/老人保健施設を退職 フリーの介護アドバイザーとなる
茨城県の老人保健施設「ごぎょうの里」とスタッフリーダーとして契約
三好春樹氏の関わるアドバイザー会社「日本生活介護」に登録し、全国各地の施設に三好さん、高口光子さんとともにアドバイザーに入る。
● 2004年4月/有限会社「ケアプロデュースRX組」設立 現在に至る
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