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加藤寛治

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詳細 2023年8月24日 18:16更新

攻玉社中学を経て、1891年海軍兵学校18期首席卒業。砲術練習所学生、戦艦富士回航委員(英国出張)・分隊長、通報艦龍田航海長などの役目を果して、1904年3月戦艦三笠砲術長として日露戦争に参加し、それ迄は各砲塔単独で射撃していたものを砲術長の命令に依る一斉砲撃に改め命中率向上に貢献した。戦争後半の1905年2月に海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。戦後、1907年1月から8月まで伏見宮貞愛親王に随行しイギリスに出張し、装甲巡洋艦浅間、筑波副長を歴任、1909年駐英大使館付武官。1911年海軍兵学校教頭、第一次大戦中、南遣枝隊の指揮官として英海軍と協同して独艦の警戒に任じた。1920年6月に海軍大学校校長を勤めた、ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎と激しく対立する。

1926年12月から1928年12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、その間、1927年4月1日海軍大将に昇進している。東郷平八郎の「訓練に制限なし」という言葉をモットーに猛訓練を行う。しかし、1927年に美保ケ関事件で殉職119名を出し査問委員会で査問に付されるが責任問題は退けられる。1929年1月鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、軍令部長に親補された。ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、浜口雄幸首相、財部彪海軍大臣と対立、これが統帥権干犯問題に発展、1930年6月条約批准後帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表提出)し軍令部長を辞任。米内光政ら条約派に対し、伏見宮博恭王、末次信正らとともに艦隊派の中心人物の一人。晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、1935年11月2日後備役。1939年、脳出血により死去。

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参加メンバー 3人
開設日
2007年7月2日

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カテゴリ
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