攻玉社を経て1889年海軍兵学校を卒業(第15期 同期に岡田啓介、広瀬武夫)、1893年海軍大学校を卒業、日清戦争に従軍。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。以後、海軍次官を務め、1919年、海軍大将。加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、4内閣(第2次山本内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、浜口内閣)において海相を勤める。1930年、ロンドン海軍軍縮会議において若槻礼次郎とともに全権となり,同条約を成立させた。しかし、海軍軍令部は大不満であり、濱口内閣の処置を統帥権の干犯であると、犬養毅・鳩山一郎らが率いる政友会と協同し内閣を攻撃した(統帥権干犯問題)。このことが原因で、予備役に編入され、実質的に引退することとなる。
なお、妻は山本権兵衛の娘である。このことについて、縁談が持ち上がった当初に同期の広瀬武夫が「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという話がある。結局縁談は成立し、スピード出世を果たした財部は、広瀬の危惧通り山本の引きで出世したかのように思われ、「財部親王」と陰口をたたかれることとなった。
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