加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として生まれる。1872年(明治5)海軍兵学寮に入り、1875年(明治8) アメリカに留学。1881年(明治14)アナポリス海軍兵学校卒。同年11月に海軍中尉任官。「摂津」分隊長、「海門」分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大臣伝令使、将官会議書記、参謀本部海軍部第3局第2課長、防護巡洋艦「浪速」副長、砲艦「赤城」艦長などを歴任。
1891年(明治24)海軍大佐・横須賀鎮守府海兵団長となり、フランス公使館付、「秋津洲」艦長を歴任。「扶桑」艦長であった1897年(明治30)10月、瀬戸内海航海中に荒天のため「松島」「厳島」と接触し船体を大破する事故を起こし、翌年4月に軽禁錮三ヶ月の判決を受けた。
復帰後、佐世保鎮守府軍港部長、「松島」艦長、「八島」艦長を経て、1900年(明治33)海軍少将・軍令部第1局長。さらに、常備艦隊司令官を経て、第4戦隊司令官として日露戦争を迎え、仁川沖海戦で勝利。
戦後、竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府長官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官を歴任し、1912年(大正1)海軍大将、翌年、予備役に編入された。1912年(大正1)臨時博覧会臨時総裁、1914年(大正3)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。1922年(大正11)から3年間貴族院議員を勤め、1927年(昭和2)に退役した。1907年(明治40)に男爵を授けられた。