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一条兼定

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詳細 2018年4月20日 21:15更新

一条 兼定(いちじょう かねさだ、天文12年(1543年) - 天正13年7月1日(1585年7月27日))は戦国時代の土佐国の国司で、土佐一条氏の事実上の最後の当主。一条房基の嫡男。官は中納言。キリシタンであり、ドン・パウロという洗礼名を持っていた。

経歴
1549年、父が死んだため7歳で家督を継いだ。このため、土佐一条氏出身の関白一条房通(兼定の祖父・一条房冬の実弟)が養父となって後見をする。1558年、伊予の宇都宮豊綱の娘を娶るが、1564年に離別して大友義鎮(宗麟)の妻を娶り、大友氏と結んだ。このため、伊予の諸大名を敵に回すことになり、1568年には伊予の諸大名を助ける毛利氏と戦って大敗を喫する。また、京都の一条家本家とも次第に疎遠になってきている。
この頃から長宗我部元親の力が台頭してきたために、兼定は妹婿の安芸国虎と呼応して元親を討とうとしたが、1569年に国虎が逆に元親に討たれてしまった。その後は長宗我部氏によって領土が蚕食され、しかも重臣の土居宗珊を無実の罪で殺したために信望を失って1574年に豊後国に追放され、大友氏を頼った。
翌1575年、兼定は大友氏の助けを借り、再興を図って土佐に進撃したが、四万十川の戦いで大敗し、戦国大名としての土佐一条氏は完全に滅亡した。子に大津御所 一条内政がいる。
一代で土佐一条氏を滅ぼしたため暗愚な武将として知られており、「性質軽薄にて、人の諫言を顧みない」と評されるほどである。しかし伝承の多くは勝者である長宗我部氏によって書かれており、兼定を実態以上に悪く記述している可能性が高い点は考慮すべきであろう。また、兼定追放には土佐一条家の自立傾向に反発する一条家本家の意向もあったといわれている。

南北朝時代から戦国時代まで国司を称するのは飛騨(姉小路)・伊勢(北畠)・土佐(一条)のみであり、「三国司」と称される。
歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」での低能力ゆえに、一部に人気がある。

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2007年7月1日

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カテゴリ
学問、研究
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