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Joseph Gilles Henri Villeneuve

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詳細 2018年9月28日 17:45更新

1950年1月18日-1982年5月8日、カナダ人のカーレーサー。姓は「ビルヌーヴ」あるいは「ビルヌーブ」などと表記されることもある。

1950年1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近い小さな町フェラ・セバルで生まれる(レースキャリアへの影響を考え、プロフィールでは1952年生れと偽っていた)。フランス語を母国語とするフランス系カナダ人。青年時代までスノーモービル競技の選手で、氷の上に投げ出されながらバランス感覚を磨いた。1973年から自動車レースを始め、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになる。当時のライバルはケケ・ロズベルグだった。
カナダ人としての偉業を讃え、初勝利を遂げたサーキット・イル・ノートルダムはサーキット・ジル・ヴィルヌーヴと改名され、その後もF1カナダGPの舞台となっている。コースのスタートライン上には「Salut Gilles(やあ、ジル)」の一文が記されている。また、サンマリノGPが催されるアウトドローモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリでは、1982年の最後のレースでスタートした3番グリッドにカナダ国旗が記され、1980年に高速クラッシュを演じたコーナーが「Curva Villeneuve(ヴィルヌーブ・カーブ)」と命名された。このコーナーでは、1994年のサンマリノGPでローランド・ラッツェンバーガーが事故死し、以後シケインに改修された。

ポールポジション2回、ファステストラップ8回、優勝6回、チャンピオン経験無しであり、記録的に見れば「少し速いドライバー」レベルのものである。しかし、傑出した才能やクリーンな姿勢から「史上最高のF1レーサー」「記録より記憶に残るドライバー」と賞賛され、現在でも語られる機会の多いドライバーである。

ドライビングスタイルは、自身が「以前から憧れていた」と語るロニー・ピーターソンと同じく、大胆にアクセルを踏みつけ、カウンターステアを当てながらマシンを横向きに滑らせる豪快なタイプだった。果敢な走りで先行車を次々に抜いていく"タイガー"型ドライバーの典型で、ドラマチックな走りを展開するため観客に人気が高かった。「ポールポジションからスタートしてそのまま優勝するより、最後尾からスタートして6位になるレースの方がいい」という発言は、その性格をよく示しているとされる。また、どんなに激しいバトルの最中でも、他のマシンに故意に接触するような卑怯な真似は決してせず、常にクリーンでフェアなレース(オーバーテイク後に相手のラインを残すなど)をしていた。また不利な環境でもあきらめずにいくつかの優勝を勝ち取った。

エンツォ・フェラーリは、ヴィルヌーヴと同様に、身の危険を顧みない勇猛な走りで多くのファンを魅了した戦前の伝説のドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリになぞらえて、亡き息子のディーノと同様に彼を愛した(エンツォがドライバーに親しく接するのは珍しいことだった)。また、ヴィルヌーヴ全盛期のフェラーリF1がマシンとしては低迷期だったのも、勇猛な走りの一因と言われる。

その一方で、勇猛な走りがクラッシュを呼びやすかったことも指摘されており、デビュー間もない時期の富士での大事故も、そして死亡した際の事故も、いずれもフォーミュラカーの特性(タイヤ同士が接触するとマシンが飛び上がる)を考えれば、可能な限り避けるべきパターンで発生している。「エア・カナダ」と揶揄された時期もあり、死去直後にも「来るべき時が来ただけ」という冷ややかな反応が、全く無いわけではなかった。

ヴィルヌーヴが活躍した時代のF1マシンは、グラウンド・エフェクトの向上でコーナリングスピードが危険域まで上昇していた。他のドライバーが安全性を訴える中、あえてリスクに挑んだヴィルヌーヴであったが、その死が一因となり、事故死の翌年にフラットボトム規制が定められ、安全性が見直されることになった。

プライベートでは飾らない気さくな人物として知られていた。率直な性格で、フェラーリチームではご法度とされるマシン批判も厭わなかった。また、サーキットにモーターホームを持ち込み、家族と寝泊りするなど、庶民的な生活スタイルを愛していた。

一方で、サーキット外でもスピード狂の性格は変わらず、幾つもの「公道伝説」を残している。スポーツカー以外にも高価なパワーボートやヘリコプターを乗り回し、同乗者に恐怖を体験させている。ガス欠寸前のヘリコプターを電線の近くでブラブラと乗り回していた事もあったし、目的地までギリギリの燃料しか積んでおらず、エンジンをかけたり切ったりを繰り返して飛んだこともあった。

ヴィルヌーヴが1981年から1982年にかけて付けたカーナンバー27番は、1980年のチャンピオンチーム、ウィリアムズとの交換で与えられた番号だった。当時は各コンストラクターの番号が固定化され、新興チームへ大きい番号が割り振られており、名門フェラーリが27番を付けるのは不振の象徴として嫌われていた。しかし、ヴィルヌーヴの獅子奮迅の活躍と悲劇の死により、27番はティフォシから「偉大な番号」として愛され、フェラーリのエースドライバーを象徴するものとなった。その後、ミケーレ・アルボレート、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、ジャン・アレジらが27番を受け継いで戦った。アレジは攻撃的なスタイルから「ジルの再来」と呼ばれ、1995年のカナダGP(上述の通り、ジルの名のついたサーキット)で感動的な1勝を挙げた。なお、1990年には、前年度チャンピオンのプロストがフェラーリに移籍してきたため、皮肉にもライバルのアイルトン・セナが27番を付けることになった。

27番の伝統はミハエル・シューマッハが移籍してきた1996年に終わる。2007年時点では参戦チーム数が最大12に制限されており、各チーム2台で最大25番(キリスト教文化圏で不吉とされる13番は除かれる)、つまり27番は「永久欠番状態」になっている。

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カテゴリ
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