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徳川忠長

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詳細 2013年2月2日 21:59更新

我儘で自滅していった忠長だけれど、
何か惹かれる。
共感する。
家光より忠長!
な人は是非!!!




徳川忠長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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徳川 忠長(とくがわ ただなが、慶長11年(1606年) - 寛永10年12月6日(1634年1月5日))は、江戸時代初期の駿府城主である。江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の三男で、母は浅井長政の娘の崇源院(お江与)。兄に第三代将軍・徳川家光。正室は小幡藩主織田信良の娘の光松院。駿府藩主。幼名は国松(国千代)。北丸殿。極位極官が従二位権大納言で、領地が主に駿河国であった事から、通称は駿河大納言。誕生日は5月7日説(「徳川幕府家譜」)、6月1日説(「慶長見聞録案紙」)、12月3日説(「幕府祚胤伝」)など諸説がある。近年の研究では徳川姓ではなく、松平姓を名乗っていたらしい。


[編集] 略歴
江戸城に生まれる。父の秀忠やお江与は、病弱であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗な国松を寵愛していたとされ、世継争いがあったとする巷説が生まれた。

実際には忠長には乳母として朝倉局(土井利勝妹、朝倉宣正妻)が仕えていたという。
元和年間には家光の世継が決定し、忠長は元和4年(1618年)9月に甲府藩20万石を拝領し、鳥居成次らが家老や六十人余りの家臣が付けられた。元和6年(1620年)9月、名を忠長と改める。元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。寛永元年(1624年)7月には駿府城を与えられて転封し、55万石を領有する。寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行する。

寛永8年(1631年)頃、辻斬りや家臣の手打、浅間神社で猿を狩るなどの行状が見られ、細川氏などの大名の間では、改易された松平忠輝や松平忠直のようになると風聞されている。将軍家光からも注意され、大御所・秀忠は忠長の出仕を停止し、忠長は秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、5月には甲府への蟄居を命じられる。秀忠の死後の寛永9年(1632年)、家光から駿河・甲斐両国を没収され、高崎(上野国)へ逼塞の処分が下される。翌年には高崎城で自害した。享年28。

身長は、推定だと161cm、体重65kgだという。子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、真偽については不詳である。また、母崇源院の叔父、織田信長に顔立ちがよく似ていたといわれている。  

法名:峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士。墓所:群馬県高崎市通町の願行山常巌院大信寺。 


[編集] 年譜
※日付=旧暦 

慶長11年:生誕
元和4年(1618年):1月11日、甲府藩主20万石を知行。
元和6年(1620年):8月22日、従四位下参議左近衛権中将
元和9年(1623年):7月27日、従三位権中納言
寛永元年(1624年):駿河国・遠江国・甲斐国で55万石を領有する。
寛永3年(1626年):8月19日、従二位権大納言となる。
寛永8年(1631年):5月、甲府(甲斐国)へ蟄居を命ぜられる。
寛永9年(1632年):10月20日、改易。
寛永10年(1633年):12月6日、配流地の高崎(上野国)で自害。享年28。

[編集] 関連項目
徳川氏
シグルイ
NHK大河ドラマで忠長を演じた人物
「春の坂道」 舟木一夫
「春日局」 岩下謙人→橋本光成→雨笠利幸→斉藤隆治
「葵徳川三代」 向江流架→今村優太(現・今村優汰)→飯塚恭平→高杉瑞穂

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