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長尾政景

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詳細 2023年8月7日 10:35更新

★トップ画像:長尾政景と綾御前(仙桃院)の肖像画より
★背景画像 :居城と城下町があった新潟県南魚沼市六日町

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長尾 政景(ながお まさかげ)

上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。長尾房長の子として生まれる。妻は長尾為景の娘(景虎の姉)である仙洞院。上杉景勝の実父。

生誕:大永6年(1526年)
死没:永禄7年7月5日(1564年8月21日)
改名:新六→政景→道宗(戒名)
別名(仮名):六郎、新五郎
墓所:長尾政景公墓所(新潟県南魚沼市)
   長尾政景の墓(長野県上水内郡信濃町)
官位:越前守
主君:長尾晴景→上杉謙信
氏族:上田長尾家
父母:父:長尾房長 母:不明
兄弟:通天存達、政景、大井田景国、女(市河信房室)、
   女(安田長秀室)
妻 :正室:仙洞院(長尾為景の娘)
子 :義景、清円院(上杉景虎継室)、顕景、
   女(上条政繁室)、時宗?

上田長尾氏の血統で長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たる。父方の祖母は上条上杉家の娘。

天文17年(1548年)守護代・長尾晴景と晴景の弟・景虎との間で抗争となり、晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになった。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎母の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱(景綱)、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。

これに対し坂戸城主・長尾政景や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。

その後、守護・上杉定実が調停に立ち、晴景に隠退を進め景虎に家督を譲らせたことで内乱は終熄した。景虎は春日山城に入り19歳で家督を相続し、守護代となる。

天文19年(1550年)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。

同年12月、政景は、景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと、さらに上田衆と称される政景の臣下は越後守護上杉氏というよりは関東管領上杉氏に結びつく伝統があった。加えて若い景虎を侮る気持ちもあり、政景は府内に対する自立的立場に固執し府中参勤も行わなかった。

天文20年(1551年)1月、景虎は政景方の発智長芳の居城・板木城を攻撃した。古志長尾氏も行動を起こし、政景方の佐藤彦八郎父子を討ち取った。上田勢も上野城に押し寄せたが、中条氏らによって撃退された。戦いは景虎方の優勢に進み、同年8月、坂戸城を包囲した。ここに至り、ついに政景は父・房長とともに景虎に誓紙を出してその軍門に降った。
 
景虎は代々、府中長尾氏に対立していた上田長尾氏を赦す気はなかったようだが、姉が政景の室であったことから、ついに政景を赦した。無条件降服した政景の所領は削減されて、宇佐美・平子氏などに与えられた。こうして政景は景虎に仕えてその一武将となったのである。

弘治3年(1557年)景虎が突然に、出家するため高野山に上ると言いおいて春日山城を出奔するという事件が起った。当時、景虎は越後の国主になったとはいえ、上杉氏の被官、国人領主、長尾氏の被官らの間で対立があって、すっかり嫌気のさした景虎は一国の政治を投げ出す気持ちになったといわれる。

この事態に際して政景は、古志長尾氏から後継ぎが入っては一大事でもあり、何よりも越後国内が分裂してしまうことを恐れて、ただちに景虎を追い掛けその翻意を求め、景虎に忠節を尽す旨の誓紙を差し出している。

この出奔事件は、景虎が家中の不穏分子を粛正するための芝居とする説もあり、事実、旧上杉氏被官に属する大熊朝秀は謀叛の兵を起こして敗れ甲斐に逃げ落ちている。いずれにしろ、景虎政権が磐石となったこの事件で、政景は重要な役割を果たした。

永禄2年(1559年)上洛した景虎が帰国したとき、越後の諸将は景虎に太刀を献じてこれを祝賀した。その目録である「侍衆御太刀之次第」によれば、「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本幹部の順が付けられていた。

そして古志長尾景信は一門の筆頭に列したが、上田長尾政景は国人衆の第7位だった。政景は景虎にもっとも近い一族でありながら、一門ではなく国人衆のしかも7位に位置付けられていたのである。政景は一族の扱いからも外され、国人衆の筆頭にも置かれなかった。景虎に抵抗した代償は上田長尾氏にとって大きなものだったのである。

このことは、後に謙信の養子となった政景の子・景勝ともう一人の養子・景虎とが家督争いを演じた「御館の乱」において、古志長尾景信が景虎方に加担し景勝に滅ぼされる遠因となったと言える。

その後の政景は、謙信が出陣したのちの春日山を留守するなど、一定の信頼を回復して「上杉二十五将」にも数えられるようになる。

永禄7年(1564年)7月、政景は坂戸城に近い野尻池(現在の銭淵公園内にある池と、湯沢町にある大源太湖の二説がある)で宇佐美定満と船遊び中に溺死した。享年38。

これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺、下平吉長による謀殺などの説があるが真相は不明。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。

政景が溺死したのは、信濃国水内郡(長野県上水内郡信濃町野尻)にある野尻湖(芙蓉湖)という説もある。実際に政景の墓が野尻湖の湖畔に作られたが、墓前での落馬が多い事から後に野尻湖に近い真光寺に移されて現存する。また宇佐美定行(定満)の供養塚も野尻湖の琵琶島にある。新潟県南魚沼市には、龍言寺(現在は山形県米沢市に移る)の跡地に長尾政景公墓所(道宗塚)がある。

謙信に仕えてからの政景は忠実にその軍役をつとめていることから、純粋に事故であり暗殺のことは後世の妄説と思われる。しかし、為景のとき以来ことあるごとに対立を繰り返してきた上田長尾氏の勢力を殺ごうとしたとする説も否定しきれない。

上田長尾家の家督は次男の顕景(のちの上杉景勝)が継いだが、謙信の養子となったため、山内上杉家と統合された形で上田長尾家自体は事実上断絶する。

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