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四代目 柳亭痴楽

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詳細 2023年2月24日 01:40更新

「東京娘の云う事にゃ サノ云う事にゃ 柳亭痴楽はいい男 
 鶴田浩二や錦之助 あれよりグ〜ンといい男…」
《笑道一代》

「上野を後に池袋 走る電車は内回り 私は近頃外回り…」
《恋の山手線》

リズミカルな口調、アクの強いご面相、波瀾万丈の生涯。

ご存じ『痴楽綴り方狂室』で人気を博した「破壊された顔の所有者」こと
落語家・先代柳亭痴樂(1921〜93年)師匠のコミュニティです。

痴楽師の魅力、好きな落語の演目、好敵手・先代三遊亭歌笑、お弟子さんたち(故・伏見知か志、故・春風亭梅橋、故・五代目痴楽、楽輔師など)について等々、いろいろ語り合いましょう。

どうぞ、ファンの方や、これからファンになりそうな方、適当に入ってみたい方など、お気軽にご参加くださいませ。


○略歴
 
 四代目・柳亭痴楽(りゅうてい・ちらく)
本名・藤田重雄(ふじた・しげお)1921(大正10年)5月30日、富山県富山市に生まれて間もなく東京に移り住み、小児麻痺のハンデを持ちながら、人を笑わせるのが好きな少年として育つ。
 小学校卒業後、旋盤工や豊竹巌太夫の元で義太夫修業をしていたが、39年に落語家・七代目春風亭柳枝(俗にエヘヘの柳枝)に入門、笑枝を名乗る。
 間もなく柳枝が病に倒れたため、大師匠で斯界の実力者・五代目柳亭左楽の門に移る。四代目柳亭痴楽を名乗り、41年に二ツ目。この直後から、柳家小きん(後の五代目柳家小さん)・三代目三遊亭歌笑と並んで“若手三羽ガラス”との評価を得られ始める。

 東京大空襲で娘を失うという悲運を経て、45年9月、一軒だけ焼け残った人形町末広にて、同名で戦後第一号の真打ち披露を行う。
 間もなくライバルの歌笑は『純情詩集』で爆笑王に上り詰めたが、50年米軍のジープにはねられ急逝。奇しくもこの日が誕生日だった痴楽は、直後のラジオ番組で歌笑の代役出演を頼まれ、歌笑ソックリに『純情詩集』を演じてみせた。これが好評を博したため、歌笑の芸風と“破壊された顔”のキャッチフレーズを踏襲し、噺のまくらで演じる『痴楽綴り方狂室』を生み出す。
 以後、爆発的な売れっ子となり、綴り方の「笑道一代」「恋の山手線」も大ヒット。特に「恋の山手線」は小林旭の歌(作詞・小島貞二、作曲・浜口庫之助)にまでなった。
 また、頻繁に大阪へ赴き、上方落語界との東西交流にも尽力。私生活では派手な豪遊に明け暮れ、大金を稼ぎながらも借金苦にあえいでいた。

 72年には、日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に新設された理事長職に就任。やがては落語界を背負って立つ存在と嘱望されていた。
 ところが73年、大阪道頓堀角座で行われた笑福亭枝鶴・桂枝雀・桂福團治の合同襲名披露公演中に脳溢血で倒れ、落語家にとっては致命的な半身不随・言語障害となって入院。以後、休業・療養生活は二十年の長きに及び、病院を転々とした後に特別養護老人ホームに入る。
 その間、再婚相手の若い夫人が看護の過労が原因で急逝する不幸などに見舞われたが、弟子など周囲の人々の支え、自身の懸命のリハビリによって少しずつ快復し、長い年月を経て、言葉も日常会話に支障がない程度にまでなった。

 93(平成5)年夏、車椅子姿で『徹子の部屋』に出演し、「恋の山手線」を披露。さらに同年10月31日、新宿末広亭で催された「痴楽を励ます会」に出演。20年ぶりの高座は立ち見の出る満員となり、痴楽は開口一番「まだ生きています」と言って観客を湧かせた。
 しかし同年、12月1日、急性心不全により逝去。72歳。最初で最後の復活から、わずか一ヶ月後の悲報であった。


出囃子=きぬた


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