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ランボルギーニ ミウラ

ランボルギーニ ミウラ

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詳細 2022年4月3日 21:17更新

市販車として考えられていなかったミウラの当初の完成度はけして高くなかった。ランボルギーニの公式な区分としてはP400、P400S(単にSともいわれる)、P400SV(同様にSVとも)と3つの時代に区切られるが、実際のミウラはその全期間を通じて一台生産する毎に完成度を高めて現在に残る名声を勝ち得ている。つまり、変更は毎回なされ、それは機能改良ばかりでなく誤りの修正もあった。イタリア小規模メーカーにはよくみられることではあるが、同時期作られたエスパーダにはこのようなことがないといわれている。


P400

ミウラはそれ以後も市販車として販売されるまでに何度も変更を繰り返した。販売された最初の一台は1967年3月に製作されたものである。名前はP400とされた。Pは"Posteriore"(後ろ)でエンジンが後ろに位置していることから、400は排気量4L(3,929cc)の意である。350馬力出力のエンジンでわずか1,075kgの車体を最高速度290km/hまで引っ張った。ランボルギーニは当時はまだ風防実験ができるほどではなかったが、ニュージーランド出身の開発テストドライバー、ボブ・ウォレス(Bob Wallace:1938-)がこれに貢献している。彼は21歳でイタリアに渡り、ランボルギーニに来る前はフェラーリやマセラティでレーサーとして活躍していたがマセラティで一緒だったジャンパオロが1963年に連れてきた。

ランボルギーニ・ミウラは扱いにくいことで有名だが、メンテナンス・サービスだけは別で、ベルトーネの設計はこの点がよく考えられていた。P400は、1967年に約110台(108台とも111台ともいわれる)が、そして1969年までに計475台が作られた。


P400S

絶え間ない変更はつづいていたが、エンジンの変更を受け、1968年12月、370馬力に出力を向上させたP400Sとなる。"S"は"Spinto"で文字通りでは「押された」という意であるがミウラでは「チューンされた」という意味で使っている。実際は公式発表の馬力ほどはでなかったというが、運転席のすぐ後ろに巨大なエンジンが積まれながら、仕切りは1枚のパネルのみというデザインのため、エンジン強化はドライバーにとってその騒音と熱にさらに悩まされることでもあった。外観の変更点では、ヘッドライトと窓枠にはクロームの縁取りがなされている。モデル途中での変更はSでも続き、途中から等速ジョイントとベンチレーテッド・ディスク・ブレーキが装備された。さらにリアサスペンション強化もその後なされた。エアコンもオプションとしてモデル途中で用意されたがあまり効かなかったという。

P400Sは140台が生産された。


P400SV


1971年3月、ジュネーブショーでは7850rpmで385馬力まで出力を上げたP400SVが登場する。"SV"は"Sprint Veloce"で「より速い車(にチューンされた)」という意味で使っている。絶え間ない変更により当初の設計目的がこのSVでやっと実現した。SVこそ本物のミウラであり、現在における市場での取引価格もそれを示している。

インテークを大きくし、キャブレターを変更、カムタイミングも変更してこの出力が達成されたが、リアサスペンションがさらに強化され、リアタイヤは9インチホイールとなりピレリーのチンテュラート(CINTURATOラジアル)を履いた。そのためリアフェンダーもワイドになってより攻撃的な印象となっている。外見の変更は、ヘッドライト周りの睫毛(まつげ)状のグリルがなくなりシンプルになっていること(右画像を拡大することで比較できる)。その下のフロントグリルも横長の楕円状だったものが上部中央が前方下部に張り出し、Sより口元を少し窄(すぼ)めた感じになっている。あわせてターニングランプも変更された。リアのコンビネーションランプにはバックランプが組み込まれた。オプションでLSDも用意されたが実際に装備されている車は少ない。

P400SVモデルは約150台が生産された。うち一台はフランク・シナトラも購入している。




仕様性能
車種名: ミウラ P400 ミウラ P400S ミウラ P400SV
全長: 4360 mm 4360 mm 4370 mm
全幅: 1780 mm 1780 mm 1780 mm
全高: 1080 mm 1080 mm 1050 mm
ホイールベース: 2500 mm 2500 mm 2504 mm
重量: 980 KG 1040 KG 1245 KG
最高出力: 350 HP/5100 r.p.m. 370 HP/7700 r.p.m. 385 HP/7850 r.p.m.
最大トルク: 37.5 mkg/5100 r.p.m. 39.0 mkg/5500 r.p.m. 40.7 mkg/5750 r.p.m.
乗車定員: 2 名 2 名 2 名



Zn 75

"Zn 75"はたった一台だけ生産されたタルガトップ風コンバージョンモデルである。タルガ風だがルーフやサイドウィンドウはまったくない。"ILZRO(イルズロー) Zn 75"または"ILZRO(イルズロー) スパイダー(SpyderもしくはSpider)"とよばれることが多い。

ILZROとは国際鉛亜鉛研究機構(International Lead Zinc Research Organization, Inc.:ILZRO(イルズロー)米国ノースカロライナ州[1])のことで、非営利団体として産業界における鉛および亜鉛利用のための研究開発をおこなう機関である。1966年当時、ILZROは自動車業界での新たな合金、コーティング方式、プレート利用、などの技術を開発しており、この新技術をより広めようと、それまでILZROの研究開発に参画していた企業だけでなく、デトロイトや米国内、さらには世界中の様々な自動車関連企業に対して広く宣伝しアピールするための"ドリームカー"を作ろうとしていた。

ILZROでは執行役員副社長シュレード・ラドケ(Shrade Radtke)がこれを取り仕切っていたが、彼は、このために、フォードの上級スタイリストデザイナージョン・フォスター(John Foster)にコンサルティングを依頼。当初、当時斬新なスタイルとして話題となっていたフォード・マスタングも提案されたが、スタイル変更についてフォード社自身が認めなかったという。ILZROと米国3大メーカーとの関係も考慮した結果、フォスターは1968年初頭にミウラを使うことを提案する。ベルトーネはこの提案を大歓迎したが、ランボルギーニのプロダクトマネージャー、パウロ・スタンザーニ(Paolo Stanzani)はランボルギーニとしてモディファイすることは許可せず、当時すでにベルトーネとモーターショーに向けて製作中だったロードスターを使うことを提案した。

そのロードスターは、車体番号"3498"のミウラをベースとしてオープン・コンバージョンの製作がなされていたもので、オープンカーとして時速300キロに対応するため車高はミウラよりさらに30ミリ下げられ、ウインドシールドの角度も変更されていた。エンジンカバーとして設けられていたルーバーははずされ、エンジン部もオープンになっている。ロールバーが頭の後方に設けられ、このロールバーとサイドメンバーの強化によりある程度、剛性を保っている。ルーフに装備されていたスイッチ類はコンソールに移され、リアコンビネーションランプも変更された。このオープン仕様ミウラはその年のブリュッセルモーターショーにミウラ・ロードスターとして出品される。

ショーの後、ILZROが買い上げ、ベルトーネはILZROと協力しコンバージョンをおこなう。パーツのほとんどは一度ばらされ、ILZROの推奨する亜鉛合金製やクローム製に置き換えられた。展伸加工された亜鉛合金製のバンパー、ドア、ラジエター、ステアリングホイール、シフトレバープレート、押出形成の亜鉛合金グリル、亜鉛コーティングされたホイールやマフラー、鍛造(たんぞう)加工のギアシフトノブ、など、キャブレターからスイッチ一つ一つまで50箇所以上が変更された。通常明るい色を全体に配し暗色でディテールを仕上げ引き締めるというベルトーネだが、このときは金属の輝きを生かすためにボディはパールメタリック調ダークグリーンとなっている。

1969年5月に"Zn 75"として再び発表され、以後、世界各地のモーターショーでの展示、各国の自動車関連会社への貸し出しで"ショー・カー"として常に注目を集めた。

役割を終えた後オークションにかけられたが、生みの親シュレード・ラドケ自身が最高額を出し、彼の個人所有となる。1980年に一度全面リフレッシュされ、その後ラドケにより1981年2月にボストン交通博物館に寄贈される。長らくここに展示されたが、博物館でレストアの後、オークションで人手にわたる。再度オークションで英国のアルコール飲料メーカー、ポートマングループの手に渡るが、この時はランボルギーニ・ミュージアムを設立するためと発表されていた。現在このミウラ"Zn 75"は日本のマツダミュージアムのコレクションにあるはずであると多くの専門家が指摘しているが、この件に関してマツダからの公式発表はなされていない。


イオタ (JOTA)

ミウラと同じ車体を使用し固定式ヘッドライトでエンジンや内装を改造したランボルギーニ・イオタがある。その実態は車体番号5084の一台だけである。それはボブ・ウォレス個人の作品として生み出されたものであり、正確にはランボルギーニの作品ではない。ボブはチームメンバーと夜と週末を使いこの製作に励んだ。潤滑系統のエンジン性能への貢献度、操縦性の向上、総合的な製造品質を調べたかっただけだとボブは語っている。フェルッチオは「やりたいなら好きにさせてやれ」といっていたという。

ホイールはリアが(9インチから)12インチとなり、フェンダーもより広げられている。スペアタイヤとガソリンタンクがエンジン後方にあるにもかかわらず重量配分がより改善されている。シャーシフロアをはじめとして車両全体にアビオナル(Avional)航空機用アルミシートを使い軽量化を図っている。固定ヘッドライトにしたのもそのためである。車重は882kgとなり、ミウラよりも360kgも軽くなった。

エンジンでは圧縮率が11.5:1とかなり高めにされ、カムシャフトもハイカム仕様、エンジンとトランスミッションを別系統のドライサンプ方式で潤滑(スプリットサンプ&ドライサンプ)。エグゾースト(排気系統)は装備されておらずそのサウンドは壮麗だったという。

ランボルギーニが財政難になった1970年に"あるミラノの得意客"に販売される。さらに1971年に、イタリアのレーシング・チーム『スクーデリア・ブレシア・コルサ(Scuderia Brescia Corse)』のオーナーで車のコレクターでもあるアルフレッド・ ベルポナー(Dr Alfredo Belponer)の手に渡る。この取引はブレシアでのランボルギーニ・ディーラー、エンリコ・パソリーニ(Enrico Pasolini)が担当していた。ところが、ベルポナーがステアリングを握る前に、ディーラーのメカニックが彼の同僚にこの車の実力を見せようと、完成したばかりで開通を待つばかりだったブレシアの環状道路で運転した結果、クラッシュさせ、横転した後、火を噴いてしまった。時速220キロ以上をだしていたというが、宙を舞ったとのことだ。ボブからは「浮きやすい」と注意されていた。乗っていた二人は死なず一ヶ月の入院ですんだ。巻き添えもなかったがイオタは修理不能の残骸となった。残骸はランボルギーニ社に引き取られたがその後廃棄されたといわれている。これがたった一台の本物のイオタの一生である。


P400 SVJ

イオタの評判を耳にした顧客が自分のミウラをイオタに改造してほしいと依頼して誕生。ランボルギーニは製作を受諾しSVJと名づけて製作された。わずか5台が製作されたのみ。5台以外にもモディファイされた車両があるが、それらはイオタ・ボディに変更されたのみでエンジンやシャーシに関してはイオタ化の変更は一切されていない。ランボルギーニ製ではあってもこの後者の仕様は"イオタ・レプリカ"とよばれることがある。

SVJの最初の一台は車体番号4934で1971年12月生産の車両で、イラン革命前の国王モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)の依頼だった。イオタのボディ、(機能しない飾りの)ブレーキ・クーリング・ダクト、ヘッドライト・カバー、レース用の外付け燃料フィルター、フロントワイパーは一本式、フロントスポイラー、サスペンション設定の再調整が施されたものだ。

テヘランの宮殿内にもう一台のSVと共に護衛付きで保管していたという。この車は革命後多くの人の手を経たが、映画俳優ニコラス・ケイジも1997年から2002年まで所有していた。


P400 SVJ スパイダー

1981年のジュネーブショーにランボルギーニが出品したオープン仕様のミウラ。実際には1971年のジュネーブショーに出品されたイエローカラーのミウラSをベースにスイスのランボルギーニ・ディーラーであるランボモートルAGがスパイダーとして1980年に架装したものである。新たにランボルギーニを買収したパトリック・ミムランがCEOについてまもなくの時期で、このP400 SVJ スパイダーはジャルパやLM002など他の1981年モデルと並んでランボルギーニブースに展示され、ランボルギーニの再生を謳っていた。このときは幅広タイヤを装着し、リアウイングも取り付けられていた。


2006ミウラ・コンセプト

ミウラ40周年にあたる2006年、新たなミウラとしてミウラ・コンセプトがデトロイトショーにて公開された。デザインはアウディグループのヴァルター・デ・シルバがおこなった。


評価

2004年、辛口の批評で知られる米国のスポーツカー専門誌、スポーツカー・インターナショナル誌がベストスポーツカー1960年代部門の第四位に"ミウラ"を、1970年代スポーツカー、および、すべての期間におけるスポーツカーのそれぞれ第四位に"ミウラSV"を選出している。


トリビア
漫画「サーキットの狼」で登場人物の飛鳥ミノルがこの車を運転し派手なドライビングテクニックを見せ付けた。
1968年公開のフランス映画「個人教授」ではナタリー・ドロンがこの車を運転するシーンがある。

                     WIKIより

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