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白山信仰

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詳細 2024年5月12日 13:03更新

石川県、岐阜県、福井県、にまたがる霊峰白山の信仰。白山は標高2,702m,富士・立山とともに日本三山に数えられている。
白山は,奈良時代越前国麻生津(あそうづ)出身の泰澄(たいちょう)大師によって開山されたと伝えられている。『泰澄和尚伝記』や『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』によれば,泰澄ははじめ越知峯(おちのみね)で修行したが,常に白山を望み,その雪嶺に必ず霊神がおられるから登って顕応を乞おうと思っていた。
717年(養老1)4月,白山々麓伊野原で天女の夢告を受け,それより白山天嶺絶頂(てんりょうぜっちょう)に登り,持念したところ池から九頭龍が出現し,さらに持念するとそれが十一面観音と現れた。次いで別山に登って小白山行事(聖観音自在の変身)に会い,また大汝峰に登って大己貴に謁した。天嶺絶頂の九頭龍は白山明神,すなわち伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で,妙理大菩薩と称した。別山小白山大行事も大汝峰大己貴も妙理大菩薩の眷属神であるという。この所伝は,本地垂迹思想の発達した平安中期以後の潤飾があり,菩薩号や本地仏の配当などは,その思潮に応じて生まれたのであろう。しかし,泰澄が白山を開き,白山明神を奉祀したことは信じてよいと思われる。白山の主尊は九頭龍であるから水神の性格を持つものであり,それが白山信仰の根幹となった。725年(神亀2),行基菩薩が白山に登り,泰澄に会って白山の霊応を問い,再会を再土に約して別れたとも伝えている。

白山登拝の山麓拠点は,加賀・越前・美濃の三方馬場(ばんば)であった。馬場は道場または祭庭の意である。これは832年(天長9)に開かれ,各禅定(ぜんじょう)道を定め,室堂を設けたものと伝えているから,平安初期には登拝習俗も成立していたとみられる。白山山上本社に対し,三方馬場に祭祀所,・拝所として中宮・本宮が設けられ,白山の祭祀組織が確立する。加賀馬場は,白山北側の禅定道の根拠地で,今の石川県石川郡鶴来町に白山本宮4社(式内社の白山比※注1※神社が中心)があり,白山寺が別当寺としてこれを司った。また同郡吉野谷村,別宮村に中宮3社があり,神宮寺が奉仕した。両宮合わせて加賀馬場下山七社と称した。越前馬場は,白山西南側禅定道の麓で,今の福井県勝山市平泉寺町に白山中宮があり,これが下七社で,平泉寺が別当職を奉じた。白山南側の禅定道を支える美濃馬場は,岐阜県郡上郡白鳥町長瀧に本宮4社があり,長瀧寺が別当を務め,また同町石徹白(いとしろ)に中宮3社(中居社が中心)があり,両宮で下山七社を構成した。

【白山信仰の普及】平安初期には,宗叡をはじめとして天台園城寺系修行僧が白山によく入山したが,858年(天安2)叡山の僧徒が白山妙理権現を延暦寺に勧請し,客人宮(まろうどぐう)と称して山王七社の中に数えた。越前馬場の平泉寺は1084年(応徳1),延暦寺末となり,一時延暦寺と園城寺との間でその所属について争いがおきたが,平安末にいたり,もとのごとく延暦寺末となった。加賀馬場白山寺も1147年(久安3),延暦寺の別院となった。美濃馬場も,平安末には同寺末となったと思われる。かくして白山教団は延暦寺を背景に政治的にも軍事的にも一大勢力に成長した。白山の僧徒は延暦寺の僧徒と呼応して権現の霊験を説き,白山の末寺・先達・神人・僧徒は北陸・濃尾地方に散在し,隆盛を極めた。白山先達・御師(おし)の活躍により白山信仰は諸方に広まり,各地に白山神社が創祀されたが,とくに中部より東日本に濃密である。東日本へのルートは,一つは加賀馬場より能登・越中・越後・出羽へと日本海に沿って北上し,港から川筋をたどって内陸部へ入り,他は美濃の石徹白御師や長瀧寺僧徒の活動により,東海地方を経由して北上した。明治維新に神仏混淆(こんこう)を禁ぜられ,寺院・仏像・僧徒を排し,権現の称を廃し,祭神を菊理媛神・伊弉諾尊・伊弉冊尊の三座とした。

 

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2006年7月5日

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カテゴリ
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