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井伊直弼

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詳細 2018年6月23日 13:31更新

幕末の大老。

彦根城主。

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っていうのはネタです♪

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井伊直弼プロフィール

井伊 直弼(いい なおすけ、文化12年10月29日(1815年11月29日) - 安政7年3月3日(1860年3月24日))は、江戸時代の彦根藩藩主、幕府大老である。官位は正四位上左近衛権中将掃部頭。鉄之介。彦根藩第11代藩主井伊直中の14男。

近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)に生まれる。庶子であり、養子の口も無く(もっとも、全くなかったわけではない。延岡藩の後継候補として弟(後の内藤政義)とともに候補として名前が挙がったことはある)17歳から32歳までの15年間を三百俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。この間長野主膳に国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らした。このころ熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。

ところが1846年(弘化3)兄の井伊直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定、従四位下侍従玄蕃頭に叙任。1849年左近衛権少将に転任。玄蕃頭は兼任。1850年(嘉永3)に兄の井伊直亮の後を継いで彦根藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)となった。彦根藩時代は藩政改革を行い名君と呼ばれ、またアメリカ合衆国のペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍した。1855年(安政2)左近衛権中将に転任。掃部頭は兼任。1857年従四位上に叙せられる(安政3)。

第13代将軍徳川家定時代の1858年(安政5)より江戸幕府の大老を務めた。孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を独断で調印する。尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。病弱な将軍家定の後継問題では紀州慶福(徳川家茂)派で、一橋慶喜(徳川慶喜)を推薦する水戸徳川家の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させる。故に尊王志士達から憎まれ、彦根藩祖直政同様に「井伊の赤鬼」といわれた。(直政の場合は畏敬の念があったが、こちらは憎しみのあまりである。また、直弼を指す隠語として「赤鬼」という語を用いる場合が多い。)1859年正四位上に叙せられる。

老中間部詮勝らとともに安政の大獄により多数の志士(活動家)を粛清し、安政7年3月3日(1860年3月24日)に水戸藩浪士により、江戸城桜田門付近で暗殺された。(桜田門外の変)

著作に『井伊大老茶道談』『茶湯一会集』などがある。

現在、彦根城内の他に横浜市の掃部山公園内に開国断行を顕彰して銅像が建っている。しかし、条約調印による開国の功績については評価が分かれている。

なお、彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、1968年に「親善都市」提携を行った。

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