☆生田敬太郎さんからコミュニティの承認を頂きました♪(2006.04.26.WED.)
☆4月23日にNew Album「息吹」が発売されました
!!!(2008.04.23.WED.)
【生田敬太郎】
1948年10月17日 山口県防府市で生まれ、
小学2年生から18才までを神戸市須磨区で育つ。
1966年上京。R&Bのバンドに参加、ダンス・クラブを中心に音楽活動を始めるが2年でバンド活動を停止。以前から強く傾倒していたトニー・ジョー・ホワイトのソロ・スタイルをとる。
1970年、渋谷のライヴハウス「ジァン・ジァン」のオーディションに合格。
1972年、第5回ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト関東甲信越大会で準優勝及び特別賞受賞。この時の審査員・浅沼勇(エレックレコード)にスカウトされる。
1972年6月 エレックレコードよりファーストアルバム『この暗い時期にも』でデビュー。
1973年4月 三保敬太郎をアレンジャーとしてセカンドアルバム『24+37』をリリース。
泉谷しげる,古井戸,ピピ&コット,佐藤公彦(ケメ),とみたいちろう,海援隊らと、唄の市コンサートに出演。全国を飛び回る。
1974年5月 細野晴臣,林立夫,矢野誠や、自らが生みの親でもある「スモーキー・メディスン」のチャー(竹中尚人),金子マリ,佐藤準らロック系のミュージシャンを起用してサードアルバム『風の架け橋』をリリース。
1975年10月 テイチクレコードより4枚目のアルバム『凱旋』を発表。 初のシングル『夢は戻り続く』をリリース。
子供向けTV番組「ひらけ!ポンキッキ」で『およげ!たいやきくん』を歌い、人気上昇。そのためレコード化へ。ところが所属レコード会社が異なるとの問題で、レコードには子門真人を起用。TV放映も子門にチェンジ。皮肉にもそのシングルが日本一の大ヒットとなる。
1976年、なぎら健壱が友人たちを集めてレコーディングしたライブアルバムに、タモリ,友部正人,高田渡,斉藤哲夫,渡辺勝,大塚まさじらと参加。
バックス・バーニー,坪田直子,池田典代,桑江知子らへ楽曲提供。
RCサクセションに仲井戸麗市と共に参加。生田敬太郎脱退後、RCは大ブレイクする。
1980年、エレック時代の後輩の海援隊が、ファースト収録の『僕の唄』をLP『誰もいないからそこを歩く』(1980年)でカバー。(のちに『涙の影一つ』もライヴでひそかにカバー)
東京キッドブラザースの音楽監督を務める。
1990年代後半から本格的に活動再開。
2000年8月 旧知の斉藤哲夫との連名アルバム『生田敬太郎&斉藤哲夫』を発表。ライブ活動も再開。
2002年、海援隊の千葉和臣とライブ共演。
2005年にエレックレコードが復活し、2006年1月、『この暗い時期にも』『24+37』『風の架け橋』の3枚がCD復刻。
2008年4月23日、「The Mole's Soul」との録音で6th Album『息吹』発売。
現在も精力的にライヴ活動を展開。野沢享司,よしだよしこ,千葉和臣,龍,とみたいちろうなどとも不定期でライブ共演。
【敬称略】
★エレック時代から生田敬太郎さんのファンの方、最近ファンになった方、現在ライブを観に行かれてる方、…等々、、どうぞご自由にトピックを立てて、語ってください!!
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