−Wikipediaより抜粋−
小西 行長(こにし ゆきなが、弘治元年(1555年)? - 慶長5年10月1日(1600年11月6日))
安土桃山時代の大名。摂津守。キリシタンとして知られた。洗礼名はアウグスティヌス。
なお対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。従五位下。内匠頭、摂津守。
堺の薬を主に扱う商人小西隆佐の息子とされる。
当初、宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えたというが、秀吉に仕えるまでの動向は良くわかっていない。
生家跡と伝えられる場所は堺が繁栄してた時代のメインストリート大小路通りにあり、現在は石碑を残すのみとなっている。
豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていたようである。
天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後半国24万石を与えられた。
肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。
文禄の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。
その後明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者沈維敬らと共謀し、秀吉が明に降伏した事にしたと偽って講和を結ぼうとする。
なおこの時日本側の使者として明の都北京に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛)である。
この結果、明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。
この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼するものも、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。
このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、死を命じられるが承兌のとりなしによって一命を救われる。
講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。
秀吉の死後、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成に呼応し西軍の将として参戦するも敗北。
伊吹山中に逃れたものの、竹中重門の手勢に捕らわれ、慶長5年10月1日に六条河原にて斬首。その後首はさらされた。
なお敗戦後自害せず斬首される事を選んだのは、自殺を禁じたキリスト教の教義に従った為とされている。
行長は商人の子である事などから文治派というイメージがあるが、加藤清正と同等かそれ以上の武断派だった。
関ヶ原敗戦後に宇土城で自害した小西行景は弟。