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HollywoodNo.1 Angie Free Tibet

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詳細 2015年6月2日 17:02更新

Angelina Jolie

1975年6月4日生
女優
ファッションモデル
UNHCR親善大使

生い立ち
カリフォルニア州ロサンゼルス出身。父はスロバキアおよびドイツ系アメリカ人俳優のジョン・ヴォイトで母はフランス系女優のマルシェリーニ・ベルトラン。生後間も無い1976年に両親が別居するとジョリーは兄弟と共にニューヨークへ移住。幼少の頃から母と共に映画に親しみ、演技に対する興味を示し始めた。1982年には父が主演した映画に出演し親子共演を果たした。
11歳の頃にロサンゼルスに戻るとアクターズ・スタジオで演技を学び舞台に立つようになる。その後ビバリーヒルズにある高等学校の演劇クラスに進学するも病弱な母の収入は決して多いとは言えず、ジョリーも度々古着を着用するなど家庭環境が恵まれていなかったため裕福な家庭が多いビバリーヒルズにおいて徐々に孤立していった。
さらに、ジョリーが極端に痩せていたことや、サングラス、歯列矯正の器具などを着用していたことが他の生徒からのいじめを誘発した。ジョリーの自尊心も、モデルとしての活動が不成功に終わったことで失われ、自傷行為を始めた。当時のことをジョリーは「ナイフで自分を傷付けると生きているという実感が沸き、開放感に満たされ癒しを感じた」と振り返っている。
最終的にジョリーは14歳で演劇クラスを離れ、激しい自己嫌悪から将来の希望を「葬儀の現場監督」とした。事実、彼女は実際に葬儀会社へアルバイトとして葬儀場の遺体の死化粧を施す担当をするなど「死」というものに身近に接していた。また、常に黒の衣装を身に纏い髪を紫に染めたり、同棲相手とモッシュに出掛けたりと極めて反抗的な思春期を送り、学業に復帰するまでに2年の時間を要した。その後自堕落な生活から逃れたジョリーは、母が住む家から僅か数ブロックだけ離れたガレージの上にあるアパートメントを借り、再び演劇を学んで高等学校を卒業した。この頃についてジョリーは「今でも、そしてこれからも私はタトゥーを付けた子供である」と表現し、当時の出来事と苦悩が自身に与えた影響が如何に大きなものであったかを話すことがある。

キャリア
ジョリーは14歳で米国とヨーロッパを基点にファッションモデルを始めた。その一方で幾つかのミュージック・ビデオに出演。先述の通り16歳で演劇を再度学び始め、ドイツ人のミストレス役で舞台デビューを飾った。兄が製作した学生映画への出演を経て1993年、低予算ながら映画初出演を果たす。1995年、『サイバーネット』で映画初主演。興業収入こそ精彩を欠いたものの、ジョリーの存在感と演技は「ニューヨーク・タイムズ」において絶賛を博し、同作品はソフト化されてからカルト映画として再評価された。

俳優としての飛躍〜トップスターへ
その後も多数の作品でキャリアを重ね、次第に賞レースにもその名が挙げられるようになった。そしてジョリーの評価を決定付けたのは1998年放映のテレビ映画『ジーア/悲劇のスーパーモデル』での演技である。エイズとドラッグにより短い生涯を終えた実在のモデル、ジア・キャランジを演じたジョリーはこの作品で数多くの賞とノミネートを受けた。さらに翌1999年の『17歳のカルテ』でアカデミー助演女優賞を受賞。実力派女優としての地位を確立したものの、時を同じくしてジョニー・リー・ミラーとの離婚を中心とした親族との不和が先行したきらいがあった。
しかし2000年、ヒロイン役として出演した『60セカンズ』が興行的に大成功を収めると、翌2001年に出演した人気テレビゲーム『トゥームレイダー』の実写化作品で、過酷なトレーニングで武道を習得した末に主人公のララ・クロフトを演じ、映画評論家から「ジョリーはクロフトを演じるために生まれてきた」と評されるなど絶賛を博し一躍世界的な人気を獲得した。その後、『Mr.&Mrs.スミス』で記録的な興行収入をあげるなど、30代前半にしてアメリカでもトップクラスのマネーメイキングスターとして活躍を続けている。

慈善活動と子供たち
2001年頃から本格的に慈善活動を始め国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使も務める。
その活動の一環として、2002年3月にカンボジア人の男児、2005年7月にエチオピア人の女児、2007年3月にベトナム人の男児をそれぞれ養子として引き取る。2006年5月には、ナミビアで俳優ブラッド・ピットとの間の実娘、シャイロ・ヌーベルを出産した(入籍はしていない)。ちなみに「シャイロ」は「救世主」「幸福なもの」という意味があり、アンジェリーナの実兄につけられるはずだった名前である。2008年7月12日にフランス南部のニースで男児(ノックス・レオン)と女児(ヴィヴィアン・マーシェリン)の双子を出産。
米紙ニューヨーク・タイムズは2008年11月11日付けの一面で「アンジェリーナ・ジョリーとそのイメージ」と題し、硬派の同紙としては異例の記事を掲載、米国の有名女優がマスコミ対策に腐心し、時には編集にまで介入していると批判的に報じている。
ジョリーは、出産した双子の写真撮影と、本人と夫の俳優ブラッド・ピットとのインタビューの独占権を雑誌ピープル(タイム社)に推定1400万ドル(約13億4000万円)で売ったが、同時に「将来にわたり一家について不利な編集はしない」ことも条件としたという。タイム社は「写真を買ったが、内容は外部からの要請によって決められることはない」と声明で反論。ジョリー側は一切、コメントしていないという。記事はさらに、カンボジアの子どもらを養子にしているジョリーが、エイズ撲滅運動に協力するなど「篤志家」のイメージを売り込むことに腐心してきたことや、いわゆるパパラッチにわざと撮影させるための機会を自ら設定するなど、マスコミ「操作」に極めてたけているとの関係者らの証言を伝えている。ただ、堅い記事で信頼を得ているニューヨーク・タイムズがこのような記事を掲載したことに読者からは「まるでゴシップ紙のようだ」という落胆の声が多く、同紙電子版にある読者コメント欄には批判的なコメントが相次いだ。

性的ゴシップ
ナイフの収集を趣味としており、10代の頃、交際していた男性とナイフで傷付け合い快感を得ていた。その動機も、通常の性行為で飽き足らなかったために使用したナイフで偶然怪我をした瞬間に快感を覚えたとのことである。また、ソーントンとは互いに血液の入ったカプセルを持ち歩き、さらに女優・モデルのジェニー・シミズが1990年代初頭にジョリーと同性愛の関係にあったとインタビューで回答し世間を賑わせたが、度重なる不倫と浮気で父に苦心させられた経験から、最低限のルールとして自らは不倫も浮気も一切していないと公言している。また、ブラッド・ピットが恋人になってからSMやレズビアンに走ることはなくなったと語る。

・幼少時からタトゥーに親しんでおり背中、腹、腕などあらゆる箇所に彫り込んでいる。嘗ては左腕に元夫の名前を彫り込んでいたが離婚と同時にレーザーで消し、現在は子供達全員の出生地とその経度を彫り込んでいる。


UNHCR親善大使
 2001年初め、UNHCRはアンジェリーナ・ジョリー氏から難民を支援したいとの問い合わせを受けた。ジョリー氏はUNHCRワシントン事務所で1日かけて説明を受け、まもなく、コートジボワール、タンザニア、シエラレオネを数週間にわたって訪問し、難民と交流し、現地にいるUNHCRの職員とともに活動した。
 その後、2001年7月にはUNHCR職員とカンボジア、8月にはパキスタンのアフガン難民を訪問。そして、8月27日、アンジェリーナ・ジョリー氏はUNHCR親善大使に任命された。
 これまでジョリー大使は20あまりの国や地域を訪問した。これまでに訪問したのは、シオラレオネ、タンザニア、コートジボワール、パキスタン、カンボジア、タイ、エクアドル、ケニア、ナミビア、コソボ、スリランカ、ロシア連邦、ヨルダン、エジプト、チャド、スーダンのダルフール地方、レバノン、アフガニスタンなど。
 2003年10月には、各地訪問時に書かれた日記をもとに「アンジェリーナ・ジョリー 思いは国境を越えて」(邦訳:産業編集センター出版部)が出版された。また、最近の現場視察についての手記はhttp://www.unhcr.org/goodwill(英語)に掲載されている。
 2003年10月、ジョリー大使は難民情勢を世界のメディアに伝えた功績を認められ、国連記者協会から第一回「国連記者協会賞」を受賞した。
 ジョリー大使は各国政府の高官と面会し、熱心に難民の権利を提唱している。また教育分野においても活発に取り組んでいる。アメリカで毎年行われる「世界難民の日」学校ポスターコンテストの名誉後援者を務め、2004年にはギリシャ人学校での難民問題をテーマとしたエッセイコンテストにも名誉後援者として携った。
 ジョリー大使は、6月20日の「世界難民の日」を記念した行事に積極的に参加し、イベントを率先して取りまとめ、難民の状況についてメディアに語るなどしている。2004年6月には、ワシントンで当時国務長官だったコリン・パウエル氏をはじめとするアメリカ政府高官とともに、5日間にわたる「世界難民の日」特別イベントを主催した。また、未成年の庇護希望者に対する法的支援を求めてUNHCRと政府への働きかけも行った。この後、ジョリー大使はバルセロナに飛び、「バルセロナフォーラム」に組み込まれた「世界難民の日」の記念イベントに参加。ナンセン難民賞授与式には特別ゲストとして加わった。
 2005年1月、ジョリー大使はスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラム年次総会に参加し、パネルディスカッションで世界中の難民の状況を改善するために企業が果たせる役割について語った。
 同年3月にはコリン・パウエル氏とともに米国UNHCR協会とクウェート・アメリカ基金の晩餐会に特別ゲストとして出席し、イラクの難民女性や子どもを支援するために100万ドルを集めた。その席で、ジョリー大使は、難民と移民の子どもたちのためのセンター(National Center for Refugee and Immigrant Children)の開設を発表した。
 2005年6月、ジョリー大使はワシントンにおいて、コンドリーザ・ライス国務長官と1994年のルワンダ大虐殺から逃れた人々を保護した元ホテル支配人のポール・ルセサバギナ氏とともに「世界難民の日」に合わせた数々のイベントを主催した。
 ジョリー大使は難民保護に熱心に取り組む一方で、UNHCRに対しても多額を寄付しており、アフリカ、アジア、中東、バルカン、アメリカ大陸での活動を支援している。緊急事態が起こった際には、いちはやく寄付の呼びかけに応じている。また各国難民キャンプへの訪問にかかる費用も自身が負担し、これを含めたこれまでの寄付総額は300万米ドル以上にのぼる。

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