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五味孝氏

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詳細 2017年2月9日 20:53更新

来歴
* 1987年 東海大学理学部に在籍していた森友嵐士、青木和義がT-BOLANの前身となるバンド“プリズナー”を結成。11月22日、ビーイング主催の第2回BADオーディション(目黒ライブステーションで開催)でグランプリを受賞。
* 1988年7 月22日、“BOLAN”としてビーイングのインディーズレーベル『YEAH』から「I WAITED FOR A TIME」でインディーズデビュー。ライブ活動を年間100本以上行う。その後、森友は他メンバーとの音楽性の相違により“BOLAN”を脱退し、新たなバンドを複数掛け持ちするなどして音楽活動を続け、その過程で五味孝氏、上野博文と出会う。森友脱退後の“BOLAN”は、しばらくしてギターとベースが脱退し活動停止状態になる。
* 1990年 再び、青木と組む道を選んだ森友は、他のバンドで活動していた五味と上野を迎え入れ、“T-BOLAN”を再結成する。
* 1991年7月、川島だりあ作詞・作曲、西田昌史(EARTHSHAKER)編曲・プロデュース(西田魔阿思惟名義)の『悲しみが痛いよ』でメジャーデビュー。以降、「離したくはない」「Bye For Now」「マリア」などの数々のヒット曲を生み出した。
* 1995年、ライブツアー『LIVE HEAVEN '94〜'95』中に、森友は原因不明の体調不良により喉の調子が悪い状態が続いており様子をみながらツアーを続けていた。しかし、ツアー最終公演であった3月26日大阪厚生年金会館大ホールでドクターストップがかかるもライブを敢行した。その後、翌年のシングル「Be Myself/Heart of Gold 1996」を境に新曲を発表することなく活動休止状態となる。
* 1996年、活動停止中にベストアルバム「SINGLES」がリリースされミリオンセラーとなる。
* 1999年12 月、ベストアルバム「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」、VHS「FINAL BEST LIVE HEAVEN〜LIVE&CLIPS〜」をリリース、また、森友嵐士による自伝エッセイ「泥だらけのエピローグ」が発売され、12月をもって解散した。

エピソード
* 名前の由来は、T. Rexの“T”と、そのボーカルであるマーク・ボラン(Marc Bolan)の“BOLAN”からとされている。と同時に、T-BOLANの“T”は、“Tear”の意味合いも含めて名付けられた。実際、公式ファンクラブは“TEARS INFORMATION”であったし、ファンクラブイベントは“TEARS SUMMIT”と名付けられており、“Tear”はキーワードであったと言える。“Tear”には、T=TIME、E=EARTH、A=ART、 R=ROCK、の意味が込められている。また、“BOLAN”の前後には、“BORAN”や、“TEAR-BOLAN”名義で活動していた時期があった。
* アマチュア時代のリーダーは青木だったが、裏リーダーは森友であった。
* アマチュア時代は原宿ホコ天で演奏していたことがある。
* 青木は森友とバンドを結成する前に、“シェリー”というバンドでレコードを何枚かリリースしている。ちなみに、女性ボーカルのバンドだった。
* T-BOLANのほとんどの楽曲を森友が手掛けているが、オリジナル曲を作るにあたり森友が作詞をすることになったのは、「作詞はバンドのボーカルがするものだから」と青木が強く勧めたことによる。森友は数多くの作品を生み出している。
* “BOLAN”としてメジャーデビューする予定だったが、海外メーカーの服の商標に登録されていて使えなかったため、“T-BOLAN”に改名してデビューした。
* テレビドラマ「ホテルウーマン」(フジテレビ、1991年10月7日〜12月23日)の挿入歌となった森友嵐士作詞作曲による楽曲「離したくはない」が有線へリクエストが殺到、かつ、長期に渡りリクエストが寄せられ話題となった。また、ドラマが終わる直前にシングルカットされ、最高位15位でありながらじわりじわりと長期に渡り売れ続け約50万枚のヒットとなった(ちなみに、このシングルのC/Wには、「Heart of Gold」が収録されている)。T-BOLANの最初のヒットは有線へのリクエスト殺到により火が点いたことがきっかけである。
* 「離したくはない」は1stアルバム「T-BOLAN」に収録されているものがオリジナルである。シングルバージョンはオリジナルバージョンと一部歌詞が異なっている。1stアルバム「T-BOLAN」以外には、シングルバージョンの歌詞で収録されている。しかし、ライブでは1stアルバムバージョンの歌詞で歌っていた。
* ビーイング所属アーティストが数々の楽曲に参加している。編曲は主に、B'zの編曲をしていた明石昌夫や、アコースティックアレンジでは葉山たけしがサポートした。コーラスでは、大黒摩季、宇徳敬子、川島だりあ等が主に参加している。
* ビーイング所属の中にはライブを行わないアーティストがいたが、T-BOLANはメジャーデビュー以前から盛んにライブ活動を行っており、デビュー後も積極的にライブツアーを行うライブバンドであった。また、ミュージックステーション などテレビ音楽番組にも数多く出演している。
* 1990年以降に売れていたビーイングアーティストとしては珍しく、アニメタイアップ曲が1曲も存在しない。
* 2003年に放送された日本テレビ音楽番組スペシャル「Happy X'mas SHOW!」でGacktが「離したくはない」をカバーした。京都時代、Gacktはクリスマス前に彼女に振られ、鴨川で友人とストリートライブをやろうということになり演奏した曲の中に「離したくはない」があったという思い出の曲なのだそうだ。演奏は鴨川で行われ生中継された。
* 「BOY」はメンバーの青木に子供が生まれたことがきっかけで作られた曲である。
* 『LIVE HEAVEN '94〜'95』ツアー最終日であった1995年3月26日大阪厚生年金会館大ホール公演当日、森友の体調不良によりドクターストップがかかり、協議のうえ森友も他メンバーも渋々ながら一旦受け入れた。ところが、舞台でスタッフがライブの中止及び延期の旨を客席に告げたところ、観客から大ブーイングと割れんばかりの森友コールが沸き起こった。これを舞台の袖から見ていた森友は心を動かされ、中止せずにステージに立ちたい思いを他メンバーとスタッフに話しメンバーは同意する(森友の体調を考えれば中止するべきだが、ステージに立たせてやりたいということと、森友がどうしてもやりたいと言い出したら聞かないという面を熟知していたことによるものだったのだろう)。勿論、スタッフは反対し、黙ってステージに立たせるわけにいかず制止(止めるスタッフに森友が「離してくれ」と言う大きな声が舞台袖から聞こえひしめきあっていた)したのだが、バンドはスタッフの制止を振り切り舞台に出てライブを行った。このライブは中断されることなく最後までやり終えている。そのためもあってか、その後、ライブは行われなかったため、森友は喉を痛めてしまい歌えなくなったのではないか、と現在まで言われるようになるが真偽は不明である。
* このライブを見た1ファンが、ジェイロックマガジン誌に、ボーカリストの体調が万全でない状態でライブを行った(観客は入場料を払った)T- BOLANの姿勢を批判する内容の意見を投稿、これをきっかけにロックファンによるライブの是非を巡る大論争があった(「J‐ROCK’Sバイブル」ジェイロックマガジン社、1996年5月、46-60頁、等に詳しい)。
* 上記の1995年3月26日大阪厚生年金会館大ホール公演を最後にライブは行われていないが、その後シングル「SHAKE IT」「愛のために愛の中で」「Be Myself」をリリースしている。またオリジナルアルバム制作にもとりかかっていて、リリースに足りるだけの楽曲は揃っていたといわれているが、結局リリースされることはなかった。「Be Myself」以降に発表された新曲は「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」にだけ収録された「SMILE」のみである。

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