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Spinoza

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詳細 2023年7月19日 00:26更新

バールーフ・デ・スピノザ(エスピノーザ)(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)はオランダの哲学者、神学者。ヘブライ語名は「祝福された」の意。一般にはそのラテン語化ベネディクトゥス・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト、ゴットフリート・ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られる。
アムステルダムのユダヤ人の家庭に生まれる。両親はポルトガルからオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示しラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。伝統から自由な宗教観をもち、そのため1656年にアムステルダムのユダヤ人共同体から破門・追放される。追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら著述生活を行う。1662年にはボイルと硝石について論争。1664年にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆につながっていく。この前後から「エチカ」の執筆はすすめられていたが、オランダの政治情勢の変化等に対応して「神学・政治論」の著述を優先させる。1670年に匿名で「神学・政治論」出版。しかし1672年にウィットが虐殺され、この折には、スピノザは生涯最大の怒りと悲しみを示したという。1673年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思想の自由が却っておびやかされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には「神学・政治論」が禁書となる。翌1675年に主著「エチカ」を完成させたが、出版を断念。またその翌年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解し合うには至らなかった。肺病を患っていたため、その翌年シェヴェニンゲン(ハーグ)で44歳の短い生涯を終えた。
なお、ハーグ移住後の生計は貴族の友人らから提供された年金による。レンズ磨きによって生計を立てたという伝承は、おもに敵対者から流された誤伝によるもの。

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2004年9月17日

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カテゴリ
学問、研究
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