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薔薇刑

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詳細 2019年5月11日 15:46更新

伝説の写真集

細江英公 × 三島由紀夫 

細江英公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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細江英公(ほそえ えいこう 1933年 - )は現代日本を代表する写真家である。本名は細江敏廣。山形県米沢市生まれ。

1933年、山形県米沢市に生れる。1952年、19歳で東京写真短期大学(現 東京工芸大学)に入学。写真サロンの月例コンテストに応募、「銀座の乞食の子供」を出品、特選に入選。福島辰夫は、土門拳らのリアリズム派にない人間味に注目。美術家「瑛九」と交流を深め、既成観念に挑む作家の精神を受け継ぐ。1954年同大卒業。福島辰夫の主宰する「十人の眼」展に参加。その後写真家集団「VIVO」をともに立ち上げる。三島由紀夫の肖像写真「薔薇刑」や秋田の農村を舞台に舞踊家の土方巽をモデルにした「鎌鼬」を発表。英国王立写真協会は、2003年9月18日記念式典で「生涯にわたり写真芸術に多大な貢献をした写真家」として特別勲章を授与した。


三島由紀夫
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ウィキポータル:文学
各国の文学・記事総覧
詩人・小説家・その他作家
出版社・文芸雑誌・文学賞
小説の分類
三島 由紀夫(みしま ゆきお、男性、1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、男性作家、劇作家、国家活動家・楯の会会長。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ、通称こうい)。東京市四谷区生まれ。学習院初等科から中等科および高等科を経て東京帝国大学法学部卒。卒業後、大蔵省国民貯蓄課に入省したが9ヶ月で退職、作家として独立した。

代表作は『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風で知られる。

その生涯
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出身
三島由紀夫こと、平岡公威は、1925年1月14日東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に農商務省官僚 平岡梓 倭文重の長男として生まれる。なお、三島の満年齢と昭和の年数は一致する。

父・梓は、一高から東大法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(のちの農林省)に勤務していた。母・倭文重は、東京開成中学校の校長で漢学者の橋健三の次女。家族は、妹・美津子(1928年生まれ)、弟・千之(1930年生まれ)。

祖母・夏子の父は大審院判事の永井岩之丞であり、母は常陸宍戸藩藩主、松平頼位の三女高。祖母は、その長女として生まれ、後に有栖川宮熾仁親王の行儀見習いとして仕える。永井荷風と三島由紀夫は、この夏子の実家を通じて遠い親戚に当たる。特に平岡梓の風貌は荷風と酷似しており、三島は蔭で父梓を「荷風先生」と呼んでいた。

祖父の平岡定太郎は兵庫県印南郡志方町(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の出。東京帝国大学法科大学(英法)を卒業し内務省官僚となり、福島県知事、樺太庁長官を勤めたが、満州でのアヘン取引に関わるスキャンダルで失脚。なお定太郎は夏目漱石と東大で同期にあたり、漱石の『それから』に登場する不倫相手の旦那(平岡)および『門』の安井のモデルとされている。

公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は、夏子の影響下におかれている。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味をふくむ過保護な教育を行った。男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使ったいう。家族の中で、夏子はヒステリックなふるまいに及ぶこともたびたびだった。また夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家などの作家的素養を培った。

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幼少年期 <1925年(大正14年)〜1940年(昭和15年)> 
1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたについては、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。高学年時から、同学友誌「輔仁会雑誌」に詩や俳句を発表する。1937年中等科に進むと、文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には同雑誌に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)〜秋彦の幼き思ひ出』『座禅物語』が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、平岡青城(虚弱体質で青白い顔をしていたために級友より揶揄されていたことから、アオジロをもじって自ら名乗った)の俳号を使い、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。このころの心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』『古事記』などの古典文学も愛読した。

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戦時下の思春期 <1941年(昭和16年)〜1945年(昭和20年)> 
1941年、公威は「輔仁会雑誌」の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水とは、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。なお、同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、ペンネーム「三島由紀夫」を初めて名のる。また清水に連れられ、保田與重郎と出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響下の詩や小説を発表する。後に美学の答えにに関して保田與重郎に幻滅する。〈謡曲の文体に関して百科事典のようだ〉といわれ失望する。彼は「謡曲の絢爛な文体は裡に末期の意識を潜めたぎりぎりの言語による美的抵抗と考えていた。参照:「私の遍歴時代」筑摩書房刊。1942年、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。ドイツ語に関して極めて優秀な生徒であった。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。1943年、林富士馬を知り、以降親しく交際する。また同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。東文彦との友情は、三島由紀夫十代書簡集新潮社刊に詳しい。弔辞は彼が読み上げた。1944年、高等科を首席で卒業し、恩賜の時計を拝領。文学部への進学という選択肢も念頭にあったが、父平岡梓の慫慂で東京帝国大学法学部法律科独法に入学し、法学の論理的厳密性から文学面でも強い影響を受け、とりわけ團藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法の美しさに魅了される。息子が文学に熱中するのを苦々しく思って妨害していた父ではあったが、彼を法学部に進ませることにより、三島文学に日本文学史上まれな論理性を与えたことは平岡梓唯一の文学的貢献であり、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として、『花ざかりの森』刊行に奔走。10月に出版された。本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)で、徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。同級生の大方が特別幹部候補生として志願していたが、三島は兵卒として応召するつもりであった。このころ大阪の伊東静雄宅を訪うも、伊東から悪感情を持たれる。1945年、群馬県の中島飛行機に勤労動員。『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く。本籍地で入隊試験を受けるが、折からひいていた風邪を、軍医が肺浸潤と誤診。即日帰郷となる。以降、三島は複雑な思いを持ち続けることになる。このころ『和泉式部日記』、上田秋成などの古典、イェーツなどを乱読する。このころ保田與重郎を批判的に見るようになった。同年『エスガイの狩』などを発表。遺作を意識した『岬にての物語』を起稿する。8月15日、敗戦。三島の「感情教育の師」とされる蓮田善明が陸軍中尉としてマレー半島で終戦を迎え、8月16日に軍用拳銃で自決。10月23日には、妹・美津子がチフスで17歳の若さで死去。このころ、のちに『仮面の告白』で描かれている初恋の女性(のち銀行員と結婚し、鮎川純太の伯母となる)とも別れている。

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文壇デビューと『仮面の告白』 <1946年(昭和21年)〜1951年(昭和26年)> 
1946年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。「鎌倉文庫」の重役であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦。これが文壇への足がかりをつかみ、以来川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は川端を先生とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』がようやく雑誌『群像』に掲載された。1947年1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集まりに参加。このとき、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と発言した。三島によると、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというが、その場に居合わせた野原一夫によると「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。11月、東京大学法学部卒業。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、健康上の理由で不採用となった。しかし高等文官試験に合格し(成績は167人中138位であった)、大蔵省事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務するが、以降も小説家としても旺盛な作品の発表を行う。初の長編『盗賊』発表する。このころ林房雄と出会う。1948年、河出書房の編集者坂本一亀から書き下ろし長編の依頼を受け、役所勤めと執筆活動の二重生活の無理が祟って渋谷駅のホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した。1949年7月、書き下ろし長編『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーショナルを呼び、高い評価を得て作家の位置を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年に、『禁色』を1951年に発表。戦後文学の旗手としての脚光を浴び、旺盛な活動を見せる。また1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発した(翌年8月帰国)。

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自己改造と『金閣寺』 <1952年(昭和27年)〜1957年(昭和32年)> 
世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見した三島は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。1955年頃からはじめたボディビルに代表される「肉体改造」。そして森鴎外に代表される古典的な「文体改造」である。その双方を文学的に昇華したのが1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした、長編小説『金閣寺』(1956年)と言え、三島文学の代表作となった。かたや三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。タイトルは流行語ともなり、映画化作品も多数制作され、文字通り文壇の寵児となる。また戯曲『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲発表も旺盛で、文学座をはじめ演出、出演も行った。

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世界的評価と『鏡子の家』 <1958年(昭和33年)〜1964年(昭和39年)> 
1959年に三島は、書き下ろし長篇『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男は「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じた。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折だったとされている。とはいえ文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇。『百万円煎餅』(1960年)、『剣』(1963年)などの短篇。『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。一方プライベートでは、1958年に、画家・杉山寧の娘、瑤子と結婚。大田区馬込にビクトリア調コロニアル様式の新居を建築する。また、このころ、ボディビルに加えて剣道を始め、大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演(1960年)したり、写真家細江英江の『薔薇刑』の被写体モデル(1963年)になったりと、肉体を露悪的積極的に自らさらした。またこの時期は、三島の文学がヨーロッパやアメリカなど海外で評価されるようになり、舞台上演も多く行われた。以降、三島の世界的評価は固定される。三島は、国内での冷遇された評価に対し、海外を意識し、理解者を求めた形跡がある。なお、1961年に発表した『憂国』は作者の意図を超えて、のちの作者自身に大きな影響を与えた一作となる。一方『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年〜)。深沢七郎『風流夢譚』をめぐる嶋中事件で右翼から脅迫状を送付され、警察の護衛を受けて生活する仕儀に立ち至った(1961年)。弟の平岡千之によると、このときの恐怖感が三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、という。『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(1963年)などと、文学と政治・思想にまつわる事件も多かったが、晩年のファナティックな政治思想ほどの関わりは持たなかった。1962年には、のちの『豊饒の海』の構想が固まってもいる。

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楯の会と『豊饒の海』 <1965年(昭和40年)〜1970年(昭和45年)> 
自らライフワークと称した輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(〜1967年)。同年には『サド侯爵夫人』も発表、ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。同時に主演・監督作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年〜1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。1966年12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループと交遊を含めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、F104戦闘機への試乗や『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊将校の山本舜勝とも交遊した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。1968年、第三部『暁の寺』(〜1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。1969年、戯曲『椿説弓張月』『癲王のテラス』を発表。東大全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦たちと激論を交わす。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。同年には、『論争ジャーナル』グループと決別し、「楯の会」はのちの三島事件の中心メンバーとなる。1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を撒き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。決起当日の朝、担当編集者に手渡した『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年の夏には既に脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。


散るを厭ふ世にも人にも先駆けて
散るこそ花と吹く小夜嵐

益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに
幾年耐えて今日の初霜

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2005年9月30日

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カテゴリ
アート
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