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石井十次と友愛社

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詳細 2016年6月7日 00:41更新

自分は石井十次に関わる団体の者でもなく、またクリスチャンや石井十次の研究者でもありませんが、宮崎県で訪れた現在も残る彼の設立した孤児院に感銘を受け、紹介と関係する方の交流に活用してもらいたくコミュ設立してみました。

(岡山県に残る記念碑より)
石井十次は慶應元年(1865年)宮崎県児湯郡上江村に生まれ明治15年岡山市に来り岡山県甲種医学校に入学、明治20年邑久郡大宮村にて孤児3名を救護し岡山市に帰り日本孤児教育会を此処に創設しこれが岡山孤児院となる。明治39年(1906年)には収容孤児1200名に達す。大正3年(1914年)宮崎県児湯郡木城村にて昇天。享年49歳

(岡山県での事績)
1865 慶応元年・日向国児湯郡上江村馬場原(現宮崎県高鍋町)に高鍋藩士の父万吉、母乃婦子の長男として生まれる。
1871 明治46・藩校明倫堂の流れをくむ島田学校に入学する。
1878 明治11〜13 ・高鍋の晩翠学舎で漢学を学ぶ。
1881 明治14〜16 ・内野品子と結婚。上江小学校の教師となる。
1882 明治15〜17 ・宮崎警察署の書記となる。
        ・岡山に出て天主教に入る。
        ・岡山県甲種医学校(岡山大学医学部の前身)へ入学する。
1884 明治17〜19 ・岡山基督教会牧師金森通倫氏より受洗。
        ・新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読み、人材養成には教
育が重要であることを再認識する。
1887 明治20〜22 ・脳病療養と医術実地研究のため邑久郡上阿知村(現、岡山市)
        へ移る。
        ・1人の男の子を同村大師堂に救う。
        ・3名の孤児救済を始める。
        ・三友寺(現、岡山市門田屋敷一丁目)の一角を借りて孤児教育        会(後の岡山孤児院)を開く。
1888 明治21 23 ・神戸において渡辺亀吉に面談し益々孤児教育の必要を悟る。
1889 明治22 24 ・「人は二主に仕うること能わず」との聖句に従い、孤児救済に        一生を捧げることを決意し、医学書を焼き医学校を退学する。
1891 明治24 26 ・濃尾大地震の震災孤児救済に着手する。
1892 明治25 27 ・名古屋に震災孤児院を設ける。(明治26年に閉鎖)
1894 明治27 29 ・日向茶臼原(現、宮崎県)の開拓に着手する。
1895 明治28 30 ・品子婦人永眠、吉田辰子と再婚する。
1896 明治29 31 ・岡山に商業部、高鍋に日州活版所をつくる。
1897 明治30 32 ・私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立。
1898 明治31 33 ・音楽幻燈隊を編成して寄付事業を始める。
        ・大原孫三郎(倉敷紡績の創業者)と知り合う。
1900 明治33 35 ・日向茶臼原の事業を中止する。
1905 明治38 40 ・日向茶臼原の事業を復興する。
1906 明治39 41 ・東北地方の凶作による孤児救済に着手。
        ・岡山孤児院の孤児1,200名にのぼる。
1908 明治41 43 ・院児10名を伴い茶臼原へ移住する。
1910 明治43 45 ・孤児院の茶臼原移転を本格的に始める。
1912 大正元 47 ・茶臼原移転をほぼ終える。
1913 大正2 48 ・私立茶臼原尋常小学校を設立。
       ・茶臼原憲法をつくる。
       ・長女友子、洋画家児嶋虎次郎と結婚。
1914 大正3 49 ・腎臓病が悪化し、1月30日午後2時永眠、茶臼原墓地(宮崎県西都       市)に葬られる。
1926 大正15   ・岡山孤児院解散する。
参考・引用: http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/ishii-juji - 3k

(宮崎県での事績)
やがて、フランスの思想家ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、木城町の南端にある茶臼原で「自然・労作」教育をしょうと、明治27年、岡山からの大移住を開始します。児童や職員はもとより、建物も解体して茶臼原の地に再現し、そこで理想的な農村共同体を実現するつもりでした。ところが、大正3年に十次は志半ばで倒れ、その事業はいったん閉じられます。その後、昭和20年に太平洋戦争被災児救済を目的に再開。「石井記念友愛社」が創設され、児童擁護施設や保育園も運営されることになりました。
参考・引用: http://www.miya-shoko.or.jp/kijo/chiiki/kankou/meisyo/uaisha.htm

(全般紹介)
石井十次は慶応元(1865)年に、現在の宮崎県高鍋町に生まれます。そして医学に志し、岡山で医学を学んでいました。この時、キリスト教への信仰を深め、入信します。そんな時、夫を失い途方にくれる四国巡礼の貧しい母子に出会い、その長男を預かり育てる決心をし、ここから本格的な孤児救済運動を始めます。

 しかし、当時は「社会事業」という言葉も「公的補助制度」もないすべてが初めてで、資金繰りから何もかもを自分の力で切り盛りしていかなければならない五里霧中、孤軍奮闘の状態でした。彼はこの間、医師としての道を歩むべきか悩んでいましたが、聖書の「人は二人の主に仕うること能わず」という言葉に感動し、医学書を焼き捨てて孤児院の仕事に一生をかけることを決意します。

 孤児院の子供は次第に数を増し、明治24年の濃尾地震では、多くの震災孤児を引き取り、孤児数は数100人にも達したといいます。この時の運営資金は主に民間の寄付金で成り立っていましたが、その中でも最大の経済支援者は、後に出会う岡山県倉敷市の大原美術館創立者 大原孫三郎(倉敷紡績会社社長)でした。

 明治25(1892)年、石井十次は名古屋において、巌本善治と出会います。この巌本は、春充師の実兄川合信水師を見出し、上京の手伝いをした人物です。信水師を見出した巌本の慧眼は、石井十次の人物をも過たず見抜きます。彼は、帰京後、雑誌に次のように石井十次を紹介します。

「石井君は将器なり、余深く君を推す。君は謙るうちに毅然たる侠骨を備え、豁達にして、猛然英決す。信仰の強きは意志の強きなり、しかもすこぶる思想に富み、かつ慨然基督教会のために許す所見ゆ」
この明治25年の夏に、信水師と石井十字は初めて出会います。この時、あの日本救世軍の創設者 山室軍平もいっしょでした。彼は前年の濃尾地震の際、石井十次を助け孤児を救済していたのです。三人は、横浜本牧に避暑中の、巌本を訪ね親交を深めたといいます。この頃、春充師は数え年10歳、強健を志す8年前のことでした。

 その後石井十字は、孤児院経営を寄付に頼ることをやめ完全な独立をはたすために、宮崎県の茶臼原という台地の開墾と孤児の移住を始めますが、この台地の開墾は困難を極め、一時は事業をいったん中止せざるをえなくなります。


 しかし、不屈の闘志で事業を再開し、水田13町歩、畑46町歩、桑畑16町歩という広大な耕地を開墾することに成功します。この「茶臼原孤児院」では明治38年の東北大飢饉の被災児を引き取り、孤児数1200名にも達したといいます。ところが、孤児院の茶臼原移転がほぼ終わったわずか2年後の大正3年、今までの苦労が祟ったのか、腎臓病によって亡くなります。
参考・引用: http://homepage1.nifty.com/hidashiki/ishi.htm

(映画情報〜マツケン主演!)
参考: http://www.gendaipro.com/juji/
※ 現在は下記の石井友愛社にてDVDが販売されております。


(宮崎県の石井記念友愛社について)
文化財という観点から: http://www.qr.minka.gr.jp/jb22miyaz.html

まだまだ自分もよく知らないことがあろうかと思いますが、このコミュを通じて地域の孤児院等児童福祉への関心に一助となれたならば幸いです。

※特定思想や石井記念友愛社の事業に直接の関係を有さないNPO等の紹介は御遠慮下さい。

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