アウトサイダー・アーティスト、「ヘンリー・ダーガー」のコミュニティです。
メェー! 映画、「非現実の王国で」DVD発売中です。
【DVD】
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わわん! イギリスで、ダーガーに関する映画が製作中です
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完成未定、みたいな状態みたいですが、たまにチェックしましょう。
ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892年4月12日-1973年4月13日)は『非現実の王国で』の作者である。英語の発音はダージャーに近い。アウトサイダー・アートの代表的な作家のひとりである。誰に見せることもなく半世紀以上自分の妄想を書き続けた彼の人生それ自体が芸術ともいえる。(以上wikiより)
親類も友人もなく、貧しい生活を送りながらも、病院のいち雑役夫として生活したヘンリー・ダーガー。彼は幼少期に母と妹をなくし、病床の父と別れ、児童養護施設へと送られた。しかもそこで精神遅滞とみなされ(実際はそうではなかったのだが)、17歳に脱走するまで、知的障害児施設で育った。そういった生育暦から、彼は美術教育はおろか、当時としてのまともな教育を受ける事なく育ち、81年の一見凡庸な生涯を閉じた。しかし彼は、19歳から81歳で亡くなるまでの約60年間で、誰にも存在を発表することなく、本編1万5145ページ(おそらく世界最長の物語)、挿絵約300枚(しかも、多くの作品が両面で制作され、幅3メートルほどもある)の大長編小説「非現実の王国で」(*1)を含む、膨大な量の作品を人知れず創作していた。
その物語は、子供を奴隷に、虐待と悪の限りを尽くす子供奴隷国家「グランデリニア」と、7人の姉妹・「ヴィヴィアン・ガールズ(シスターズ)」率いる平和国家「アビエニア」の長大な戦争叙事詩である。
“文体を特徴づけるのは、異常な文法・リズミカルな言葉の繰り返し・そして新造語の使用である。句読法は、あるとしても、奇妙なものである。これはアウトサイダー・アートと同格の、アウトサイダー文学である。ダーガーは言語の再構築を行っていた。” (ジョン・M.マクレガー)
「正午の頃、グランデリニアの激高した暴徒はヴァイオレットとその姉妹たちの牢屋を目指して続々と集まってきた。暴徒を率いる旗印は6人の美しい幼児の頭部と、切り裂かれた胴体で、腹から腸が飛び出し、いずれも槍の穂先に突き刺され血をしたたらせていた。幸いにも、ヴァイオレットたちはこれを見なかった。これらは大きな牢屋の中庭にヴィヴィアンの少女たちが閉じ込められているあの塔のあの窓の下に運び込まれ、これらは、悪魔のように叫び、ヴァイオレットとその姉妹たちに姿を見せよと要求し、彼女たちがそのようにすると、彼らは窓をめがけて麗しい子供たちの頭部と胴体を差し出し、内側にいる彼女たちの間にどうにかこれらを投げ入れた。それから扉に殺到すると、暴徒は少女たちの膝に子供たちの頭部を押し付け、鉛筆でこれらを写しとるように命じた。少女たちは恐ろしさのあまり死ぬのではないかと思ったが、言われた通りにするのが一番だと考え、両手が自由になると、そして鉛筆と紙が渡されると、おぞましい胴体と頭部を描き始めた、絵を描くのは得意だったので出来上がりは完璧だった。」 (「非現実の王国で」より)
物語が完成に近づいたころ、ダーガーは物語に挿絵を加える事を決意する。その手法は、雑誌や広告にある少女の写真を切り抜き、トレースをしてコラージュしてゆくという、ダーガー独自の技法だった。極彩色で彩られた、天真爛漫な挿絵の数々。「ペニスを持つ」少女たちが、想像上の美しい花を手に唄い、踊り、そして内臓をぶちまけながら死に絶える。あまりにも無邪気で残酷な挿絵は、現在ニューヨーク近代美術館にて、ピカソの作品の横に飾られている。
そんな、あまりにも偉大なアウトサイダー・アーティスト「ヘンリー・ダーガー」を愛する人々のコミュです。
(*1)正式なタイトルは、『非現実の王国として知られている国の、ヴィヴィアンの少女たちの物語。あるいは子供奴隷の反乱が引き起こした、グランデコ=アンジェリニアン戦争の嵐の物語』という、非常に長いものであった。
ダーガーの作品を見られるwebサイト
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(24枚のドローイング)
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(26枚のドローイング)
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(“シカゴ 851 WEBSTER”に存在した、移築前のダーガーの部屋の動画が見れます!)
現在・ダーガーの作品を所有している美術館
スイス・ローザンヌ
「アール・ブリュット・コレクション」
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アメリカ・ニューヨーク
「アメリカン・ミュージアム・オブ・フォーク・アート」
(最も多数の作品を展示)
アメリカ・シカゴ
「イントゥイット」
(ダーガーの部屋を再現している!)
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日本における個展
1993年
世田谷美術館 「パラレル・ヴィジョン」展(グループ)
1997年
資生堂ザ・ギンザ・アートスペース 「ヘンリー・ダーガーが生んだ少女たちの王国」展
2000年
メルシャン軽井沢美術館 「突き上げる想像力 アール・ブリュット=生の芸術展」(グループ)
2002年
ワタリウム美術館 「ヘンリー・ダーガー 〜7人の少女戦士、ヴィヴィアン・ガールズの物語『非現実の王国で』」展
2005年
ハウス オブ シセイドウ 「Passion and Action-生の芸術アール・ブリュット」展(グループ)
2007年
原美術館 「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語-夢の楽園」展
2008年
滋賀県立近代美術館 「アール・ブリュット−パリ、abcdコレクションより−」(グループ)
2011年
ラフォーレミュージアム原宿「アメリカン・イノセンス 純真なる妄想が導く【非現実の王国で】」展
書籍
洋書 画集
「Art and Selected Writings」 (150の図版を掲載!死ぬほどお勧め!)
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作品社
「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」 (超おすすめ!)
インペリアルプレス社
「HENRY DARGER’S ROOM 851 WEBSTER」
美術出版社
「美術手帖」2007年5月号
淡交社
「パラレル・ヴィジョンズ」 (絶版・入手困難)
斎藤環著 太田出版
「戦闘美少女の精神分析」 (ヴィヴィアン・ガールズに対する分析)
ダーガーについて解説されたサイト
東京アートレビュー「少女たちの戦いの物語−夢の楽園」(おすすめ!)
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当コミュニティのURL
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誰かに紹介する場合は、こちらが短くてお勧めです。
ダーガーが埋葬されている墓地(All Saints Cemetery )
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ヘンリー・ダーガー略歴
1892年 0歳
4月12日、シカゴに生まれる(24番街350番地)。父はダーガーと同じ名、ヘンリー・ダーガー。ドイツ生まれの移民一世で、仕立屋だった。母ローザ・ダーガー=フルマン。父51歳、母31歳。
1896年 4歳
4歳の誕生日直前、母を妹の出産時に産床敗血症で失う。(享年35歳)妹は即養子に。以後、生涯妹と会うことは無く、名前すら知ることはなかった。
1900年 8歳
父の足の障害が悪化したため、カトリック系児童施設「慈悲深き聖母の伝道団」に入所。父は「聖オーギュスティン養老院「貧者の家」」に入所。
1902年 10歳 (1904年?)
精神遅滞との誤診を受け、イリノイ州にある「リンカーン精神薄弱児収容施設」に入れられる。 1200人(ほとんどが知的障害児)もの子供を収容していたこの施設では、後に体罰や事故死、職員の窃盗、子供の遺体の無断解剖などが発覚し、大スキャンダルに発展する。
1908年 16歳
救貧院にて父が死亡。
1908-1909年
ダーガーが生活していた施設の周辺で、少女の絞殺死体が発見される。事件は迷宮入り。「犯人はダーガーだったのではないか?」と指摘する研究者も。
1909年 17歳 (1907年?)
父の死を知る。出所直前に2度目の脱走に成功。250キロもの道のりを歩いてシカゴに戻り、「サン=ジョゼフ病院」の皿洗い兼掃除夫の職を得る。以後引退するまで、数々の病院等を渡り歩く。
1910年 19歳
この年、「非現実の王国で」執筆開始。
1911年 19歳
5月11日、エルシー・パルーベック誘拐殺人のニュースがシカゴ・デイリーニュース紙に掲載される。彼女の写真は切り抜かれ、特別な意味を持つ。物語の重要人物で、「王国」に反逆するリーダー、アニー・アーロンバーグのモデルとなる。(しかも、アニーは物語開始時に既に殺されている。)
1912年 20歳
7月、アニー・アーロンバーグの写真を紛失。以後数か月神に写真の返却を祈り続ける。
1912年 20歳
12月、写真が返却されないことに怒り、神に脅迫を行う。作中、敵将としてダーガーが現れ大虐殺を行い、一時的に信仰を捨てる。
「自分はキリスト教の大義の敵であり、心から願うのはキリストの軍勢が粉砕されるようにすることだ!グランデリニア人を戦争に勝たせよう。不当な試練があまりにも多かった報いだ。どんなことがあっても彼らを許さない。自分の魂を失おうとも、あるいは大勢の人々を失うことになろうとも。これ以上試練が続くなら復讐してやる!神は俺に辛く当たり過ぎる。誰のためであろうと、もう我慢できない!地獄に送るなら送ってみろ、俺は自分自身のものだ。」(ダーガー自身の弁)
1916年 24歳
4月30日、レミントン社製タイプライターを使い、「非現実の王国で」の清書を執筆開始。
1917年 25歳
9月、陸軍に徴兵される。記録によると、身長は5フィート1インチ・152.5cm(しかし、周囲の人は160cmほどだったと証言する。)しかし、12月には目の障害を理由に名誉除隊になる。この出来事を、彼は深い恥辱と挫折ととらえた。
1930年代 38歳〜48歳の間(不明)
30年代のいつかに、「非現実の王国で」の執筆を終了する。即、続編の「シカゴのヴィヴィアンガールズ」(表紙紛失のため原題不明)執筆に移る。
1932年 40歳
死の直前までの40年間を過ごす、851 WEBSTERのアパートに転居。同時期に挿絵のドローイングの制作を開始。
1944年 52歳
ドローイングに写真の引伸ばしのアイディアを導入。11×14インチの写真は、246枚を数える。以後ダーガーのドローイングに大きな進化が見られるようになる。
1959年 67歳
56年にテキサス州へと転居していたが、手紙を通じて頻繁な交流があった、生涯を通じて唯一の友人だった、ウイリアム・シュローダーが逝去。 「彼は私にとって、兄弟のような存在だった。」
1963年 71歳
11月19日、病気のため、務めていた病院を解雇される。以後、社会保障を頼りに引退生活を送る。
1963年 71歳
自伝「私の人生の歴史」を執筆開始。最終的に8巻5085ページにも及ぶ。しかし、実際のダーガーの伝記は206ページまで。以降の膨大なページは激しい竜巻についての描写で、それは全てダーガーの妄想だった。
1972年 80歳
父が入所したのと同じ救貧院に入所。「ここで死にたい」との願いは、またも神に通じなかった。
1973年 81歳
家主・ネイサン・ラーナーが、ダーガーの部屋から数々の作品を発見する。しかし、トラック2台分の貴重な資料を廃棄した後でもあった。
1973年 81歳
4月13日、ダーガー死去。偉大なる王国を後にし、僅か半年の救貧院生活だった。死亡日は自分の誕生日の翌日、かつ実父と同じ場所での死だった。シカゴ空港の北にある、All Saints Cemeteryという墓地に埋葬される。碑銘には、「アーティスト・子供たちの守護者」と刻まれる。
2000年
4月13日、ダーガーの死後もそのままに保存されていた、851 WEBSTERのアパートが老朽化のため取り壊される。遺品はシカゴのイントゥイット美術館に譲られ、ダーガーの部屋が再現されている。