Anfernee 「Penny」 Hardaway(アンファニー 「ペニー」 ハーダウェイ)が好きな人のためのコミュ
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プロフィール
Anfernee Deon Hardaway(アンファニー・ハーダウェイ)#1
【ニックネーム】:PENNY(ペニー)
【生年月日】:1971年 7月18日
【身長】:6−7/201?
【体重】:215lbs/97.5?
【ポジション】:G-F(PG〜SF)
【出身地】:テネシー州メンフィス
【出身高校】:トレッドウェル高校
【出身大学】:メンフィス大学
【ドラフト】:1993年1巡目3位(Golden State Warriors)
【キャリア】:1993年〜2007年
【所属チーム】
・1993−94〜1998−99 Orlando Magic
・1999−00〜2003−04 Phoenix Suns
・2003−04〜2005−06 New York Knicks
・2007−08 Miami Heat
キャリア通算成績&通算アベレージ
【通算出場試合】:704試合(スタメン出場557試合)
【通算出場時間/通算平均出場時間】:23714分/平均33.7分
【通算ポイント/通算平均ポイント】:10684Pts/平均15.2Pts
【通算リバウンド/通算平均リバウンド】:3146Reb/平均4.5Reb
【通算アシスト/通算平均アシスト】:3525Ast/平均5.0Ast
【通算スティール/通算平均スティール】:1125Stl/平均1.6Stl
【通算ブロック/通算平均ブロック】:312Blk/0.4Blk
【通算平均フィールドゴール%】:45.8%
【通算平均3ポイント%】:31.6%
【通算平均フリースロー%】:77.4%
プレイオフ通算成績
【通算出場試合】:64試合(スタメン出場63試合)
【通算出場時間/通算平均出場時間】:2640分/平均41.3分
【通算ポイント/通算平均ポイント】:1304Pts/平均20.4Pts
【通算リバウンド/通算平均リバウンド】:303Reb/平均4.7Reb
【通算アシスト/通算平均アシスト】:394Ast/平均6.2Ast
【通算スティール/通算平均スティール】:119Stl/平均1.9Stl
【通算ブロック/通算平均ブロック】:48Blk/平均0.9Blk
【通算平均フィールドゴール%】:44.8%
【通算平均3ポイント%】:38.0%
【通算平均フリースロー%】:74.6%
キャリアハイ
【ポイント】:42Pts vs.New Jersey 1995年11月8日、他1試合
【アシスト】:19Ast vs.Boston 1995年4月13日
【リバウンド】:13Reb 3回
【スティール】:7Stl 3回
【ブロック】:4Blk 2回
【通算トリプルダブル】:6回(レギュラーシーズン・5回、プレイオフ・1回)
主な受賞歴
・オールルーキーファーストチーム(1993−94)
・オールスタールーキーチャレンジゲームMVP(1993−94)
・オールNBAファーストチーム(1994−95、1995−96)
・オールNBAサードチーム(1996−97)
・アトランタオリンピック金メダル(1996)
・オールスターゲーム出場 4回(1994−95、1995−96、1996−97、1997−98)
生い立ちと学生時代
幼少時に父が家族のもとを去り、母は歌手になるため実家を離れたため、ハーダウェイは祖母に育てられた。
祖母はハーダウェイを「可愛い」という意味の "puitty" ("pretty" の訛り)で呼んだ。
この呼び名が「ペニー」と聞こえたため、のちにあだ名として残ることになった。
高校時代のハーダウェイはジョージア州を代表するバスケットボール選手で、大学は地元のメンフィス州大学(現在のメンフィス大学)を選んだ。
大学1年の時には学業の不振により大学のチームでプレイできなかった。
また同じ1年生の時にハーダウェイは強盗に銃で足を撃たれたことがあった。
2年生になると成績が向上しチームへの参加が許された。
ハーダウェイはチームを代表する選手として活躍し、シーズン後にはオリンピックに出場する初代ドリームチームの練習相手として組まれた学生選抜に選ばれた。ハーダウェイ同様長身のポイントガードだったマジック・ジョンソンは、「鏡を見ているようだ」とハーダウェイを評した。
3年生の時には平均22得点、8リバウンド、6アシストを越える成績を残し、プロ入りを決意した。
NBAでのキャリア
【オーランド・マジック時代】
ハーダウェイがプロ入りする1993年には、オーランド・マジックがドラフト1位指名権を持っていた。
マジックはクリス・ウェバーを指名し、ゴールデンステイト・ウォリアーズが3位でハーダウェイを指名、両者はドラフト当日中にトレードされ、ハーダウェイはマジックに入団した。
未来を嘱望された期待の新人としてオーランド・マジックに入団し、身長2メートルの大型ポイントガードとして、以後ハーダウェイは前シーズンにマジックに1位指名されていたシャキール・オニールとともにチームの中核になる。
1993−94シーズン、スコット・スカイルズがポイントガードを務めていた為、本来のポイントガードではなくシューティングガードで起用されることも多かった。
さらにオーランドのファンは、ウェバーがチームに加入することを期待していたためハーダウェイには冷たかった。
しかしハーダウェイの活躍により徐々にファンからも実力を認められるようになる。新人王はウェバーが獲得する。
オールルーキーファーストチーム(新人のうち最も優れた5人の選手)に選ばれた。プレイオフ1回戦でインディアナ・ペイサーズに3連敗し敗退。
1994 Pippen All Star Classicでマイケル・ジョーダンと組み、52得点を記録し、ジョーダンを再びNBAに呼び戻すきっかけとなった。
1994−95シーズンはポイントガードとして定着し、チームは57勝25敗。
オールNBAファーストチーム(リーグ中の最も優秀な5人の選手)の一人に選出された。
2年目のシーズンから4年間連続でオールスター戦の先発選手にも選ばれ、ハーダウェイはリーグを代表する選手の一人になる。
プレイオフ2回戦で現役に復帰したマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズに勝利。
若手が中心で創設6年目のチームがNBAファイナルに勝ち進んだことは快挙だったが、マジックはヒューストン・ロケッツにスイープで敗れた。
翌1995−96シーズンは、開幕前にオニールが怪我をして欠場しチームの戦力は落ちたが、ハーダウェイの活躍でチームの勝率は良かった。
オールNBAファーストチームに選出され、チームもリーグ屈指の60勝22敗という成績だったが、プレイオフではシカゴ・ブルズに敗退。
1996年のオフシーズン、ドリームチームのメンバーとしてアトランタオリンピックで金メダルを獲得する。
そのオフにペニーと確執があったシャキール・オニールがロサンゼルス・レイカーズに移籍し、ペニーがチームのエースになる。
翌1996−97シーズンの開幕戦で、ハーダウェイらオーランド・マジックは日本を訪れた。
オニールが移籍し、またハーダウェイ自身も膝の怪我のため23試合欠場したためマジックは苦戦するがプレイオフに出場し1回戦のマイアミ・ヒート相手に平均31.0得点と活躍するも敗退。
翌1997−98シーズンも同じく膝の怪我で出場した試合は19試合に留まった。チームもプレイオフに出場できなかった。
以降ハーダウェイの個人成績は怪我をする前の水準に戻ることはなく、ハーダウェイはオーランド・マジックの観客にブーイングされることもあった。
1998−99シーズンは33勝17敗と勝ち越したものの(ロックアウトのため全50試合)、プレイオフでは1回戦で敗退し、当時ヘッドコーチだったチャック・デイリーやチームフロントとの確執からFAになったハーダウェイは移籍を志願し、ジェイソン・キッドからの強い誘いを受けフェニックス・サンズにサイン&トレードで移籍した。
ジェイソン・キッドとハーダウェイのコンビの期待感から「バックコート2000」と呼ばれた。
【フェニックス・サンズ時代】
1999−2000シーズンは、移籍先のフェニックスでジェイソン・キッドが先発のポイントガードだったため、ハーダウェイはシューティングガードとしてプレイ。
平均得点16.9点、リバウンドとアシストは5以上とまずまずの成績だった。プレイオフではチーム最多となる平均20.3得点と活躍する。
1回戦で前年優勝のサンアントニオ・スパーズに勝利、2回戦のロサンゼルス・レイカーズに敗退する。
翌2000−01シーズンはふくらはぎの怪我のため4試合の出場のみ。
キッドの活躍でチームの成績はよかった。
翌2001−02シーズンは80試合に出場したものの先発は55試合に留まり、個人成績にも低下が見られた。
さらにジェイソン・キッドがサンズのオーナーから客を呼べないと酷評され、ネッツのステフォン・マーブリーとトレードされたためチームの勝率を大きく落とし、プレイオフに出場できず。
翌2002−03シーズンの出場試合は58試合、チームも若いジョー・ジョンソンを重視しハーダウェイはチームの構想から外れていく。
翌2003−04シーズン途中にステフォン・マーブリーらと共にニューヨーク・ニックスへトレードされた。
【ニューヨーク・ニックス時代】
2003−04シーズン途中から加入、ベンチから起用されることが多かった。プレイオフ1回戦でキッド所属のニュージャージー・ネッツに敗退するも平均16.5点と活躍する。
翌2004−05シーズンは37試合と限られた出場の機会を全て控え選手として過ごした。
翌2005−06シーズンは膝の状況が改善しないため4試合の出場に留まり、シーズン中に古巣のオーランド・マジックへトレードされた。
年俸が非常に高額であったためマジックはすぐに契約を放棄しており、そのシーズンはその後どのチームにも所属していない。
【マイアミ・ヒート時代】
2007年8月10日、マイアミ・ヒートと契約したことを発表、シャキール・オニールと再びチームメイトになる。
保障なしの契約で、キャンプで解雇される可能性があったが見事開幕ロスターに残る。
16ゲームに出場し、うち8ゲームで先発。
ドウェイン・ウェイド、シャックのつなぎ役としてスモールフォワードのポジションでいぶし銀のプレーでチームに貢献。
その後、チームが極度の不振で再建モードに入ったことで、若手主体に切り替えるチーム事情により解雇され今に至る。
まだNBA復帰は諦めておらず、本人はヒートとの再契約か、古巣のマジックでの復帰を希望している。