指揮者クレメンス・クラウスClemens Kraussのコミュニティ
青い血の内燃がきこえるような 無比の典雅と艶麗は 美丈な「つらだましい」と呼応する。
✽http://
(日本語でも読めます)
✽http://
マエストロの略歴:
1893年(明治26年)3月31日、オーストリア・ハンガリア二重帝政下のウィーンに生まれる。歌手で女優の母クレメンティーナ・クラウスがウィーン宮廷劇場でバレリーナだった十代の頃の、廷臣カヴァリエ・ヘクトル・バルタッツィ(Chevalier Hector Baltazzi 1851-1916)との授かり子だというが謎めいている。実父はウィーン大司教ともトスカーナ大公ヨハン・サルヴァトール(Johann Salvator von Österreich-Toskana 1852-1911説 指揮者?)だとも、皇帝フランツ・ヨーゼフ二世の御落胤であるとも噂された。
大叔母に、名歌手ガブリエル・クラウス(Gabrielle Krauss 1842-1904)を持つ。
眉目うるわしき雛僧のむかし、ウィーン少年合唱団でボーイ・ソプラノの独唱を披露しマーラーの絶賛をうける。
20歳前にブルノ歌劇場でロルツィングのオペラ『ロシア皇帝と船大工』を指揮しデビューする。
1922年、ウィーン国立歌劇場に登場したクレメンス・クラウスは、既にドイツ語オペラの代表曲多数を指揮した青年楽士であり、ワーグナーの『ラインの黄金』『ワルキューレ』リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』といった巨匠レパートリーを披露すると聴衆を熱狂させた。1929年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就くと同年にはアメリカ・デビューもはたす。ローリングトゥウェンティーは、ハプスブルグの遠き雅びに喝采をおくった。ニューヨーク、フィラデルフィア・・・・
1934年、クラウスはベルリン国立歌劇場の音楽監督も兼ねることになったが、誤解が生じた。この時期はナチスがドイツでの政権を樹立し、ベルリン国立歌劇場のまえの音楽監督フルトヴェングラーがナチとの衝突で辞任した直後の就任であったため、ナチへの支持ととられた。クラウスはヒトラーのお気に入りの音楽家のひとりであったが、ナチ台頭下のドイツをユダヤ人たちが逃亡するために幾多もの援助をおこなった。
リヒャルト・シュトラウスはクレメンス・クラウスと30歳の年の差をこえた親友同士で、その親交は30年代にいっそう増した。リヒャルト・シュトラウスの曲はクラウスの十八番と認められ、『アラベラ』『平和の日』『ダナエの愛』の初演をまかされ、『調和記念日』『カプリッチョ』では台本造りにたずさわる。ホフマンスタール、ツヴァイクといった一流作家たちの台本でオペラを書きつづけたシュトラウスにとって、クレメンス・クラウスの文学への造詣の深さは眼鏡にかなう、願ったりの共作者だった。
フォン・グローデン男爵が撮る美貌な男性写真を蒐集し、作家本人に会いに行くなど美丈夫にご執心だったリヒャルト・シュトラウスが、クラウスに衆道の愛を抱いていたことは空想できる。ふたりで並んだ写真は多く残っている。
クラウスがゲイあるいはバイセクシャルであったかどうか定かではないが、母が踊っているとき産気づくと、おなかの男の子は同性を愛するようになるという。前述したがマエストロの母堂はバレリーナである。・・・・
1939年12月31日に維納で「ニューイヤーコンサート」の第一回がクレメンス・クラウスによって開かれる。クラウスのウィンナ・ワルツは生粋のウィーン魂と讃えられた。残された録音のかずかずは名盤の筆頭にあがっている。
クレメンス・クラウスのウィンナ・ワルツは大味だというがそれでもいい。これほど色気と品の豊かな演奏は他にないのだから。こんな文はクラウスのワルツの夕映えに似た華麗さを絶妙に代弁していると感じる。「たとへば色気ある、疲れたる女の、今一度己の衰へたる色の最後の閃きを写し見んと、鏡にうつむき覗きたる如し」(ダンヌンツィオ『秋夕夢』森鷗外訳)
1945年にナチ党第三帝国が斃れ、クラウスは連合軍政下に謹慎をいいわたされるが間もなく解除。ウィーンだけでなく倫敦や南米各地に客演し、1953年には満を持してのバイロイト・デビューをはたす。
クレメンス・クラウスは1954年に薨去した。かれの指揮を何処よりも愛したウィーン中が、弔意の半旗に染まったという。