野球界の2人の伊東に対し、物申したい人達が集うコミュです。
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伊東昭光
日本の元プロ野球選手、プロ野球の指導者。東京都出身。現役時代はヤクルトスワローズに所属した投手。右投げ右打ち。現役時代を通じて先発・中継ぎ・抑え全てをこなした。
略歴
1984年、ロサンゼルスオリンピック野球日本代表に参加し、金メダル獲得。
1985年、ドラフト1位でヤクルトに入団。背番号は18。
1987年、プロ入り初の2桁勝利(14勝)。
1988年、抑えを務めて最多勝獲得。
1991年、プロ入り後初めてとなる一軍登板無し。
1992年、この年7勝をあげ復活。カムバック賞を受賞。
1993年、5年ぶりとなる2桁勝利(13勝)。15年ぶりの日本一に貢献。
1998年、現役引退。
1999年、ヤクルトの投手コーチに就任。
2006年、ヘッドコーチへ昇格(投手コーチを兼任)。
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伊東勤
プロ野球選手・プロ野球監督。右投げ右打ちの捕手。現役時代は西武ライオンズで活躍し、引退後は西武の監督となり現在に至る。西武黄金時代の司令塔として鳴らした。
略歴
1980年、熊本県立熊本工業高校(定時制)野球部の捕手として、県大会決勝で秋山幸二がエースだった熊本県立八代高等学校を破り夏の甲子園に出場。西武の根本陸夫監督にその才能を認められ他球団から守るために西武に囲い込まれた。
1981年に西武球団職員として雇われ、昼間は練習生として活動し、夜は埼玉県の埼玉県立所沢高等学校(定時制)に通学した。
1982年、ドラフト1位で西武に入団。前年に西武に入団していたライバル秋山と再会する。1年目の1982年は33試合、2年目の1983年には56試合出場と経験を積み、1983年の日本シリーズでは第4戦以降大石友好、黒田正宏を差し置きスタメンに抜擢される。翌1984年より正捕手となり、以後西武のホームベースを死守し続けた。
2001年オフ、フロントより監督要請を受けるも固辞する。しかしコーチ兼任は受諾し、2002年は総合コーチ兼捕手として現役を続行する。翌2003年限りで現役を引退した。
2004年より監督に就任する。伊東勤本人の選手引退、松井稼頭央のメジャー移籍、アレックス・カブレラの死球による長期離脱などで苦戦が予想されたが、伊東の穴を細川亨が、松井の穴を中島裕之が、カブレラの穴をロッテから移籍したホセ・フェルナンデスが埋めることによってチームは2年ぶりのリーグ優勝、12年ぶりの日本一となった。
監督としては元捕手の経験からか、捕手と投手の相性にこだわる。(例としては、涌井―炭谷の10代バッテリーや、松坂―細川のバッテリー等)。
2006年7月19日の福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!Japanドーム)でクロスプレーの判定を巡り審判に暴力を振るったとして選手時代、監督時代通じて初の退場処分を受けた。
左投手には右打者を、右投手には左打者を並べるオーダーを好むため(所謂左右病)、一部ファンからは不評を買うようである。
以上、Wikipediaより
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『伊東でいいのかスワローズ!』
『伊東でいいのかライオンズ!』
『強いスワローズを返して下さい』
『強いライオンズを返して下さい』
が合言葉です!