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藤田平

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詳細 2013年9月16日 00:40更新

藤田 平(ふじた たいら、1947年10月19日 - )は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。右投左打。愛称は「平」。阪神タイガースの生え抜き打者で名球会入りした唯一の選手。引退後は解説者を経て、阪神の監督を務めた。

市立和歌山商業高校から1965年、ドラフト2位で杉下茂監督率いる阪神に入団。1年目で1軍に定着し2年目の1967年に吉田義男(後の監督)を二塁に追いやり遊撃手のレギュラーに定着、1970年代を代表する名ショートとして活躍。主に1番・3番を打ち、「貧打・阪神」といわれた阪神打線を主軸打者として支えた。中距離打者だが、田淵幸一等の長距離打者を軒並み欠いた1971年には28本のホームランを放っている。流れるような美しいフォームでしばしば巧打を放ったが、チャンスに初球をポップフライすることが多かったり、第一打席でヒットが出れば猛打賞というジンクスを持つなど、職人肌特有のムラッ気もあった。

1978年に一塁手に転向。同年208打席連続無三振の当時日本記録を樹立(1997年にオリックスのイチローが216打席で更新)。翌1979年4月17日の対ヤクルト戦(神宮球場)6回2死の打席で、遊ゴロを打って一塁に走る途中で左足太ももの肉離れを起こす。経過が思わしくなく当時のドン・ブレイザー監督は、『日本の医者は何をしているんだ?米国なら簡単に治る!』と激怒。同年7月に渡米、ロサンゼルスの外科手術専門治療所で筋肉強化のリハビリを受けシーズンを棒に振った。

以後足に不安を抱えながらも1980年に復帰。翌年の1981年に打率.358で見事首位打者に輝き、カムバック賞を受賞する。また、同年からコーチを兼任し始める。1983年には通算2000本安打を達成。阪神の生え抜き打者としては初の名球会入りとなった。チーム新記録となる2010試合出場をおき土産に1984年に現役を引退。現役時代は無口でおとなしく、お家芸ともいえる内紛には遠井吾郎と共にほとんど関与していなかった。19年間阪神の主力として活躍したが、不運なことに現役選手としてはついに優勝を経験できなかった。

1985年から1994年まで朝日放送の野球解説者。21年ぶりの阪神優勝の場面はラジオ中継の解説者として立ち会った。中村勝広監督の要請で1995年阪神2軍監督。中村監督の途中休養に伴い同年オールスター後は代理監督。1996年監督昇格。妥協を許さぬ姿勢と指導力で阪神の再建に本気で取り組んだが、長谷川平蔵をもじった「鬼平監督」と呼ばれるほどの熱血指導が主力選手からの反感を買い、1996年のシーズン途中で解任された。

現在はサンテレビ解説者、デイリースポーツコメンテーターとして活躍している。また、村田兆治が設立した「対馬まさかりドリームス」に参加。村田と一緒に、日本全国の野球少年への指導のため、全国を飛び回っている。

通算成績
試合2010 打数7217 得点854 安打2064 二塁打355 三塁打50 本塁打207 打点802 盗塁85 犠打44 犠飛50 四死球571 三振679 打率286  

タイトル・表彰・記録
首位打者 1回(1981年)
最多安打 1回(1967年)
ベストナイン 7回
(1967年、1969年〜1971年、1973年〜1974年、1981年)
ゴールデングラブ賞 3回
(1973年、1975年、1981年)
208打席連続無三振 
(1978年4月30日〜7月5日)
オールスターゲーム出場 8回
(1967年、1969年、1971年、1973年〜1976年、1981年)

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