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加藤隆義

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詳細 2023年6月24日 15:31更新

東京府立一中を経て、明治33年・12月、海軍兵学校入校。明治36年、兵学校31期を5位の成績で卒業。同期に及川古志郎大将・長谷川清大将がいる。

日露戦争は富士乗組員として従軍し、戦後は三笠・春雨と勤務し、香取回航委員としてイギリスへ渡った。松江航海長を勤めて航海術を身につけた。

大正3年12月1日から1年間、海軍大学校で学び、最上・関東・千歳・伊吹の航海長を歴任した。

明治42年12月1日より海軍大学校乙種・専修学生を経て、呉予備艦隊・練習艦隊の参謀を務め、大正元年12月1日、再び海軍大学校に進み甲種学生となる。ここで航海術を磨き、春日・朝日の航海長を務めた。

大正6年5月よりフランスに派遣され、続けてベルサイユ条約全権随員を務めた。この経験は後にも活かされ、昭和2年に再びフランスに駐在し、国際連盟の軍事諮問委員会に海軍・空軍代表として列席することになる。

大正8年11月に帰国してからは軍令部で勤務し、大正10年には作戦班長となる。しかし、就任から1ヶ月後にワシントン軍縮条約が調印され、作戦班長としての手腕を発揮することはできなかった。就任前から軍縮反対を表明していた船越は、さらに軍縮への警戒感を強めていった。大正11・12年と、東宮武官付兼侍従武官に着任。

大正12年12月10日、病床の加藤友三郎大将は船越を養子に迎え入れ、家督と子爵の位を譲った。軍縮条約を巡って相容れない両者の養子縁組に難色を示す声も少なからずあったが、友三郎大将と同郷で名門の出自、そして海軍の中でも出世頭という縁もあり、隆義大佐が選ばれた。しかし養父の威光をもってしても、子爵家の家督をもってしても、隆義の軍縮拒否はまったく揺らぐことはなく、この海軍の将来を巡る親子の見解は平行線のまま、友三郎大将は12年8月24日に永眠した。

戦艦霧島艦長を経て、前述のとおりフランス駐在、国連海空軍代表を歴任し、加藤は航空兵力の将来性に期待感を抱くようになった。軍縮条約の枠内でも、航空攻撃によって艦隊の補助をする構想は、先に山本英輔が発案していたが、加藤も航空戦力の具現化に向けて研究を始め、末次信正・中村良三・高橋三吉ら最前線の艦隊派による漸減邀撃作戦研究に大いに役立った。加藤自身も昭和5年12月1日に第1航空戦隊司令官として実践を積み、海軍大学校長を経て昭和8年11月15日に航空本部長に就任し、航空戦力の開発計画を強く推進した。

昭和9年軍令部次長に就任。加藤が待ち望んでいた軍縮条約破棄が通告された翌10年に第2艦隊司令長官へと移った。翌11年には呉鎮守府司令長官へと移ったが、昭和13年11月15日、出世には恵まれず軍事参議官に降りた。自ら決戦艦隊を統率する野望は果たせなくなったが、気楽な軍事参議官となったことから、たびたび米英に対する強硬な意見を現役将官に伝達することも多かった。振り返ると、加藤の海外勤務はフランス勤務が突出しており、イギリスには一度きり、そしてアメリカにはまったく踏み込んでいない。外交官としては優れていた加藤だが、時流に合わない任地に送られてしまったことになる。

昭和14年4月1日、同期の長谷川清と同時に大将へ昇進した。その半年後には及川古志郎も昇進し、31期の3大将がそろうことになる。ただし、長谷川と及川は現役で要職に留まっているにもかかわらず、加藤だけは軍事参議官に甘んじた。冷徹なまでに理論的な加藤は、度量の広い長谷川や温厚な及川に比べて扱いづらい面が多々あった。

太平洋戦争中も軍事参議官に留まり、敗戦直前の昭和20年6月1日に予備役編入を受けて現役から退いた。この間にも軍事参議官の面々は入れ替わり続け、昭和17年7月13日に加藤自身が先任の参議官となった。このため伝統的に先任参議官が兼任していた高等技術会議議長に就任し、特命検閲官として各地の部隊を視察することも多く、現場でも頻繁に戦争指導にいそしんだ。昭和19年8月には、嶋田繁太郎の軍令部総長後任に推されるが、実現しなかった。

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