平成24年5月
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昭和7年(1932年)、陸軍参謀総長が皇族の閑院宮載仁親王であったため、海軍もバランスをとるため、博恭を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化について「私の在任中でなければできまい。是非ともやれ」と軍令部次長に指示するなど、皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っており、特攻戦術も推進した。海軍軍令部長を、陸軍「参謀総長」と対応させて「軍令部総長」(「海軍」とつけない)改めたのも伏見軍令部総長宮(ふしみぐんれいぶそうちょうのみや=官職にある皇族の正式な読み方)の時代である。北原白秋作詞による軍歌「伏見軍令部総長宮を讃える歌」も作られている。
華頂宮博厚親王薨去の、華頂宮の家督を継承し、名を博恭と改める。当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となる。
旧征夷大将軍・公爵の徳川慶喜九女経子を妃とし、王子も海軍軍人となる。第一王子博義王は海軍大佐に昇り、一条実輝公爵の娘朝子と結婚するが、昭和13年10月に死亡する。第二王子博忠王は博恭王の後を継ぎ華頂宮を継承し海軍中尉となる。博忠王も大正13年3月に若くして死亡し、華頂宮は断絶。第三王子博信王は大正15年に華頂姓を賜り臣籍降下し、華頂博信侯爵となり兄王の華頂宮の祭祀を継承し海軍大佐に至る。第四王子博英王は伏見姓を賜り臣籍降下し伏見博英伯爵となり階級は海軍少佐になるが、昭和18年8月に戦死。
博恭王の三人の王女恭子女王、敦子女王、知子女王はそれぞれ侯爵浅野長武、伯爵清棲幸保、久邇宮朝融王と結婚する。尚、伯爵清棲幸保は真田幸民伯爵の三男で伏見宮邦家親王王子の清棲家教伯爵の養子。