九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)とは、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、大宰府(太宰府)がその首都であったとする説である。(ウィキペディアより)
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◆『都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。』(『隋書』倭国伝)
→飛鳥時代の日本の都は明日香でも大和でもなくヤマタイだった?
◆『開皇20年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる』『王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六〜七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ』(『隋書』 倭国伝)
→600年の大王(天皇)は、妻や女がいたんだから、女帝の推古天皇ではなく、男の王のはず!厩戸皇子(聖徳太子)でもなく、阿毎多利思比孤(アマタリシヒコ)だった!
◆『大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢』『国書には「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」と記されていた。』(『隋書』倭国伝)
→遣唐使を派遣したのは厩戸皇子(聖徳太子)ではなく、阿毎多利思比孤(アマタリシヒコ)だった!
◆『推古15年(607年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣された』(日本書紀)
→「唐」が建国されるのは618年!607年の中国はまだ「隋」だったはず!日本書紀の記述はおかしい!
◆『阿蘇山が有り、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。』(『隋書』倭国伝)
→隋の人が明日香に来たなら三輪山や天香具山について書くはずが、なぜか九州の阿蘇山についての記事が!邪馬台国も飛鳥時代の都も九州にあった?
◆『卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した』(『三国志』「魏書」倭国伝=『魏志倭人伝』)
→大分県の宇佐神宮には、古墳らしき山と「百体神社」という神社がある!
→「径百余歩」は150m説(魏晋朝の1里=300歩=434mに基づく)、70〜80m説(通常の大人の1歩幅70〜80cmに基づく)、30m説(短里に基づく)の3説がありますが、宇佐神宮の亀山は山上が直径70〜80メートルと一致。さらに、宇佐神宮のすぐ近く真玉村にある猪群山にあるストーンサークルは東西33m、南北42mなので規模的にも一致する。ストーンサークルにはご神体も祀られている。
◆『宋書』などに登場する『倭の五王』(讃、珍、済、興、武)の記事
→天皇の系譜と一致しない!
◆『日本國は,倭國の別種なり。其の國、日の辺に在るを以て、故に日本を以ちて名と為す。或ひは曰はく、倭國自ら其名の雅ならざるを惡みて、改め日本と為す。或ひは云はく、かつて日本は小國にして,倭國之地を併せると。 』(『旧唐書』)
訳:『日本国は倭国とは別である。太陽の近くにあるので日本と名乗っている。あるいは、倭国が倭という名称を嫌って日本へ改称したとも言われる。あるいは、元々小国だった日本が倭国を併合したとも言われる。』
→改称なのか併合なのかどっちが本当?
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