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キッシンジャー

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詳細 2022年11月19日 21:48更新

Henry A Kissinger
二十世紀最高の外交家



経歴

生い立ち
1923年、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにユダヤ人である。ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したために運命が一変した。

一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住し、1943年に同国に帰化。(ドイツに残った親類はナチに殺害された。)ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第二次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留した。


政権中枢入り

その後ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、1954年博士の学位を取得[1]。同校の政治学部教授として教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の安全保障政策にも積極的な提言をはじめる。特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核政策(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した[2]。

1968年の大統領選では共和党の大統領候補指名選に立候補し、ニクソンに敗北したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていたが、ニクソン政権の誕生とともに、国家安全保障担当大統領補佐官として政権中枢に入り外交全般を取り仕切る。ソ連と第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進。キッシンジャーの推進したデタント政策はベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二極対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、台頭してきた中華人民共和国を新たなプレイヤーに組み入れること、また、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを安定的に再編成する長期的な意味を持っていたといえる。中ソ対立を利用した米中国交樹立などはその典型である。


評価など

周恩来と毛沢東とともにその巧みな外交手腕から、アメリカにおける20世紀後半を代表する外交家とされるほど評価が高い。
キッシンジャーとニクソンが推進した外交の特徴はその現実主義にある。国益を外交の中心に据え、世界的なバランスオブパワーと配慮しつつ、アメリカとその同盟国に最大の利益をもたらすというのがその基本姿勢といえる。このような外交政策は「孤立主義」と「理想主義」を信奉するアメリカにおいては特異なものだった。
1971年、極秘に中華人民共和国を二度訪問し、米中和解への道筋をつける → ニクソン大統領の中国訪問。
1972年、日本の田中角栄首相が訪中し日中国交正常化を図る計画を知り、「ジャップ」との表現を用いて日本を「最悪の裏切り者」と非難した。
1973年、パリ協定締結へ向けての努力など、ベトナム戦争終結への貢献を理由にノーベル平和賞を受賞したが、パリ協定の締結が行われてもベトナムには一向に平和が訪れる兆しはなかった。また、同年に起きたチリのアウグスト・ピノチェト将軍による、世界初の自由選挙による社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権に対する軍事クーデターをCIAを使い支援したとして、後に国際的な非難を浴びる。
1974年、シリアで行われた同国のアサド大統領との会談において、直前にインドで行われた地下核実験が「パキスタン、中華人民共和国を神経質にするだろう」と発言。さらに同氏は「日本も核を開発すると思う」と指摘。

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カテゴリ
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