会津藩家老・西郷頼母に関するコミュニティーです。
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参考 by田中玄亮氏
「会津藩で最も先を見ていた男。そして最も悲しい運命を背負った男」
『西郷頼母近悳家老』
私は涙無くしてこの話を書けませんでした。
皆様がこのような事が起こってしまったら冷静でいられますでしょうか?
情けが欲しいわけではありません。
ただ会津藩士の忠義、武士道精神を是非見ていただきたい
�� 会津藩筆頭家老になった超エリート
西郷頼母は1830年生まれ。
代々家老を務める西郷家の当主で、
幕末には
会津藩筆頭家老となった。
つまり、藩主松平容保公に次ぐ最高幹部
今で言えば、副総理大臣、官房長官
を合わせたような立場
�� 「京都守護職は受けるべきではない」と反対した
1862年、容保公に京都守護職就任命令が下る。
藩内は大騒ぎ。
ほとんどの重臣は賛成した。
しかし、頼母、田中土佐はじめ強く反対した。
彼はこう言った。
「京都の争いに巻き込まれれば会津は滅びます」
「会津は東北の一藩にすぎません」
「薩摩や長州との対立は避けるべきです」
つまり、
戊辰戦争を6年前に予言していた
�� 頼母の予言は全部当たった
頼母が心配したこと。
京都で孤立する
↓
実現
長州と敵対する
↓
実現
朝廷との関係が複雑になる
↓
実現
会津が戦争に巻き込まれる
↓
実現
藩が滅びる
↓
実現
だから歴史家の中には、
「幕末会津で最も先見性があった人物」
と評価する人もいる。
�� でも決定後は全力で藩主を支えた
ここが頼母の凄いところ。
反対したのに、決まったら従った。
「藩主が決めた以上は支える」
これが武士の忠義。
だから頼母は最後まで容保公を支え続けた。
�� 会津戦争最大の悲劇
1868年、会津戦争が始まる。
頼母は城外防衛を担当した。
その間に、西郷家では悲劇が起きる。
母・妻・娘たち21人が自刃
敵軍侵入の報を聞き、西郷家の女性たちは
辱めを受けることを拒み、自害した。
亡くなったのは
母
妻
娘
親族
合わせて21人とも伝わる。
「西郷家自刃」
これは会津戦争最大級の悲劇として語られる。
頼母は戦場から戻り、家族の亡骸と対面することになる。
想像を絶する出来事
�� 鶴ヶ城降伏後も生きた
多くの家老が、
* 自刃
* 切腹
した。
しかし頼母は生き残った。
なぜか。
それは、「会津の歴史を後世へ伝えるため」
だったとも言われる。
�� 明治になって神職となる
頼母は後に日光東照宮の宮司となる。
つまり、徳川家と会津の精神を守る立場になった。
�� 会津の証言者になった
晩年、頼母は多くの聞き取りや証言を残した。
もし頼母がいなかったら、
会津藩内部の事情の多くは失われていた。
だから歴史資料としても超重要人物
�� 頼母は「逃げた人」ではない
昔は、消極的、、弱腰と言われたこともあった。
でも今は評価が違う。
頼母は戦うことを恐れたのではない。
「会津を守るために戦争を避けようとした」
んだ。
つまり、臆病だったのではなく現実主義者だった
松平容保との関係
頼母と容保公は、しばしば対立した。
しかし頼母は容保公を嫌っていたわけじゃない。
むしろ逆。
「殿を守りたい」「会津を守りたい」
その思いが強かったからこそ、
厳しい諫言を続けたんだ。
頼母は、
「会津の未来を最も深く考えた家老」
「誰よりも会津を愛し、誰よりも会津の悲劇を背負った男」
京都守護職の危険を見抜き、
会津滅亡を予見し、
家族21人を失い、
それでも生きて会津の歴史を伝えた。
だから西郷頼母は、
「会津藩最後の良心」
「会津の魂を守った家老」
と呼ばれる🥺![]()
そして会津の人々にとって頼母は、
勝者にも敗者にもなれなかった人。
ただひたすら、
「会津がどうすれば生き残れるか」
を考え続けた人だった🥺
。
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