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連雀通り(都道134号)

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詳細 2012年6月10日 20:21更新

おかげさまでコミュ創立3周年を迎えることができましたぴかぴか(新しい)
ありがとうございます

コミュ副名称:連雀通り沿線会

1三鷹・小金井・小平・国分寺市民にはお馴染み連雀通りを利用する方のためのコミュですうれしい顔
おかしな通りの名称と思われるかもしれませんが地元の人たちにとって無くてはならない道路なのです車(RV)

2連雀通りの正式名称:東京都道134号恋ヶ窪新田三鷹線
国分寺市東恋ヶ窪埼玉県道・東京都道17号所沢府中線交点より小金井市を経て、三鷹市牟礼東京都道14号新宿国立線交点に至る一般都道である。


3なぜ、「連雀」と言うのか?

 もちろん、三鷹市上連雀や下連雀に由来する。
三鷹通りを挟んで西が上連雀、東が下連雀。同じ連雀だが成立の経緯は異なっている。
 連雀のそもそもの由来は神田連雀町。吉祥寺村同様、話は明暦3年(1657)の大火にさかのぼる。現在の神田須田町、淡路町の辺りがかつての連雀町。行商人たちの多く住む町であったというが、彼らは大火で焼け出されたうえに、新たな都市計画に基づく強制移転で住居も召し上げられてしまった。代わりに与えられたのが現在の下連雀の地。開発初期の頃は連雀新田と呼ばれた。

 ちなみに連雀とは行商人が荷を背負う際に用いる背負い紐のことといわれるが、また荷を背負ったその姿が鳥の連雀に似ているところから、彼らを連雀行商人と呼んだとの説もあり、はっきりしない。
 
 とにかく農作業に不慣れな商人たちがにわかに武蔵野の原野に土地を得てしまったのである。「武蔵野や行けども秋の果ぞなき いかなる風の末の吹くらん」とは当時の歌。連雀新田の名主を代々勤めた松井家の文書には、万治2年(1659)、作づけの失敗が多く食べてゆけないので幕府に借金を申し入れたこと、その後5年間で苦労して返済したことなどが記されている。
 
 一方の上連雀は、関村(現在の練馬区関町北)の名主井口家によって開発された。初め連雀前新田と呼ばれたことから分かるように、開発は連雀新田よりやや遅かったようだ。やがてこの両新田は上・下の区別で呼ばれるようになった。井口家一族は連雀通り沿いに多く住んだといわれるが、現在もこの通り沿いには旧家が残っている。井口家は村の繁栄に意欲的に取り組み、村人に石高の増大を奨励したという。そのため上連雀の村人の間では、上連雀では月に35日働かねばならない、下連雀では30日、だが境(現在の武蔵境駅付近)なら25日で生活が成り立つ、だから嫁をやるなら境がいい、などともいわれていたという。
 
 上・下連雀村は近隣8ヵ村とともに明治22年(1889)に合併され三鷹村となった。なお、三鷹の名の由来は、「三」については諸説あるが、この付近一帯がお鷹場であったからという点では一致している。三鷹は将軍家と尾張家のお鷹場の境界に当たり、その境を示すお鷹場の碑が現在も残っている。

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2007年4月30日

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カテゴリ
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