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成島柳北

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詳細 2017年7月23日 13:20更新

浅草御廐河岸(現・東京都台東区蔵前2丁目)生まれ。
幼名甲子麿(こしまろ)→甲子太郎(こしたろう)。本名:惟弘(これひろ)。
幕府奥儒者成島稼堂の三男。代々将軍侍講の家柄。

成島家は19世紀前半から「徳川実紀」「続徳川実紀」などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、洋学を学ぶ。また、慶応年間に騎兵奉行、外国奉行(三千石、従五位下、大隅守)、会計副総裁等を歴任。

明治維新後、東本願寺法主の大谷現如の欧州視察随行員として明治5年、共に欧米を巡る。欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。後に大槻磐渓の紹介によって、1874年に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の評議員にも就任している。また文芸雑誌「花月新誌」を創刊し文芸界でも活躍。商法会議所(現商工会議所)の設立、墨田川河畔の桜植樹等にも尽力、前米大統領のグラントの接遇委員も勤めた。1884年11月30日、胸の病のため、47歳(当時48歳)という若さで死去。

「柳橋新誌」(初編安政6年執筆、二編明治4年執筆)は柳橋(現在の台東区柳橋)の花柳界を描いた戯作であるが、明治維新前後の転換期にあたって、江戸と明治の世相の変遷も描いている。

(上記、Wikipediaより一部改変して掲載致しました。)

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開設日
2007年1月9日

6372日間運営

カテゴリ
学問、研究
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