エアハルト旅団はヴァイマール時代に登場した義勇軍(フライコール)の中でもっとも有名な部隊であった。
義勇軍は第一次世界大戦の敗戦とドイツ革命の混乱期に出現した旧軍や学生、青年層からなる民兵組織であり、その中枢となったのは大尉〜少尉たちの下級の青年将校たちであった。
彼らは、戦前の反市民的な青年運動と、第一次世界大戦での将校と兵士が同志的関係として組織化された特別編成の特攻隊(Stoßtrupp)のメンタリティをベースにしていたため、ナショナリストとしてのメンタリティと共にブント的なプロイセン社会主義や自主独立のアナキズム的体質を合わせ持っていた。
ヴァイマール時代当初は、左翼によるドイツ革命の圧殺部隊として動員されたが、その後は、バルト三国地方でボリシェヴィキの赤軍と戦い、オーバーシュレジェン地方では国境防衛のために転戦していく。義勇軍は赤軍と激しく戦ったもののボリシェヴィキを憎悪したことはなく、むしろ反対の立場に立つ戦う者として共感すら覚えていた。
政府の命令をも無視しがちな大規模な民兵組織の存在は政府には邪魔となり、やがて解散命令が出されることになる。義勇軍はそこに政府の裏切りを感じ、エアハルト旅団の六千名の部隊は帝政派によるカップ一揆に加わり首都ベルリンを制圧した。しかしカップ一揆は数日で敗北し、義勇軍の希望は絶たれた。
多くの義勇軍は、武器や弾薬は地下に隠し、表向きは労働キャンプを形成し屯田兵のように農業に従事したり、石炭採掘業からトラック運送会社、自転車貸業、私立探偵事務所、サーカス団、クラブ経営など市民生活的職業を偽装しながら存続を図った。
「鉄兜にはかぎ十字、腕の記は黒・白・赤、エアハルト旅団の名は祖国に鳴り響く。ひとたび矛をとるならば天下無敵のエアハルト旅団・・・」と歌われた義勇軍エアハルト旅団もまた解散命令を受け、部隊の旧将校たちを中枢にしてベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ドレスデンなどに「コンスル(執政官)」と呼ばれる地下武装組織を形成する。
コンスルは、合法組織部門においては、ナチスに先行してハーケンクロイツの印を鉄兜に記し、アジア・アフリカの民族独立運動との連帯の立場を、反西欧、反スターリンの「第三帝国」とスローガン化した。
コンスルのテロ活動としては外相ラーテナウや蔵相エルツバーガーなどの暗殺が有名だが、徹底した非合法軍事主義の路線に立ち、ミュンヘン一揆後、合法的議会路線に転向したナチスとは対立的となる。
コンスルによれば、ナチスは「ドイツ民族の敵」であり、「西側連合国の手先」にすぎず、コンスルは「真の第三帝国」の立場からナチスへの批判を展開するようになる。エアハルト旅団の旧将校たちはナチス突撃隊の指導部を掌握し、ナチス突撃隊は、さながらエアハルト旅団・コンスルの別働隊の感があり、突撃隊の「第二革命」もその影響とされ、ヒトラーが突撃隊幹部の粛清を敢行した背景には、このような問題があった。
ナチス体制成立期には、コンスルは特攻隊による総統官邸襲撃とヒトラー暗殺を画策した。
またナチス時代は、カナリス提督指導下の国防軍防諜部や謀略部隊のブランデンブルク師団に潜り込んで生き延び、極右による反ナチ運動を展開し続けた。
ドイツのファシストはナチスだけではなく、思想的には「保守革命」と呼ばれる運動があり、テロやクーデターをする軍事的要員を持った組織としてはコンスルなどが存在した。
コンスルは、極右ではあったがナチスではなかったため、その運動の継承形態は戦後も存続し、現在もネオ・ナチとは異なり、むしろドイツ極右の主流ともいうべき国民革命派として存在している。またコンスル出身の作家としてエルンスト・フォン・ザロモンがいる。
トップの写真は、ビラをまくエアハルト旅団。鉄兜にはハーケンクロイツが記されている。
エアハルト旅団の映像
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カップ一揆に参加してベルリンを制圧したエアハルト旅団。
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