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犬養毅

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詳細 2019年1月6日 21:31更新

「話せばわかる。」が復活しました。


犬養 毅(いぬかい つよし、安政2年4月20日(1855年6月4日) - 昭和7年(1932年)5月15日)は、日本の政治家。第29代内閣総理大臣。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。

備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる。(後に、犬養と改姓。)一時二松学舎にも通い、慶應義塾退学。退学の理由は、一説によると首席での卒業が叶わなかったからだと言われている。1882年、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍。1890年の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1898年の隈板内閣では共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後を受けて文部大臣となった。1913年の第1次憲政擁護運動の際は第3次桂太郎内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに憲政の神様と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は桂の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は一貫して辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。

犬養は第2次山本権兵衛内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし、ほどなくして犬養は、小政党を率いることに限界を感じたことから革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退する。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を衆議院選挙で当選させ続けた。さらに、政友会総裁の田中義一が没すると、後継総裁をめぐって内紛が生じ、その結果犬養は幹部に乞われて1929年に第6代立憲政友会総裁に就任する。

さらには、1931年12月に立憲民政党の若槻礼次郎内閣が崩壊したため、反対党の総裁犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策のイニシアチブを執ろうとつとめた。犬養の就任後は、桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぐ。ファッショ排撃を訴えた犬養自身も、五・一五事件で凶弾に倒れた。享年77。墓所は港区の青山霊園と岡山にある。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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