『幼女に踏まれたい!!』
幼女に踏まれることこそ、幼女にすべてを捧げてお仕えすること、幼女の奴隷になることこそ窮極にして至高の悦楽!
この窮極の快楽こそ、我々の明日そのものなのです!
ようじょ、ばんざい!!
幼女、ああ、究極至高の神聖!! 無垢なる清浄が、ああ、つぶらな瞳、滑らかにして清らかな肌、美の至上の造形たるその可愛らしくも崇高な御身、そして、美の御身に宿る、無垢にして永遠たる純粋至上の光の魂!!
ああ、ようじょ!! そは天使、地上に降り立った光の天使!
ようじょ、ようじょに全霊を賭して誠心誠意お仕えすること、それは、我等の魂を至天の高みへと導く無限の喜びなのです!!
はああ…ようじょ…ようじょ…。
皆さんに真実を伝えましょう。それは、我々にとって、最も重要な真実、『この世で最高のエクスタシーは何か?』という無限の命題。
私が、いま、この答えをだしましょう!
この世で、最高の性的快楽とは、
『ロリータ・マゾヒズム』!!
はああ…!! ようじょにすべてを捧げ仕えして、この身のすべてを委ねること、最高の、究極の、無限の、永遠の、超越の、遥かなる快楽!!!
例えば私が、大人に「お前、足を舐めろ」とか言われたら、スタンガン&特殊警棒あたりを使用して五万発ほど相手を殴らせて頂いた後、相手の口を蹴り上げて歯を全部折ったことを確認してから、相手の口内に靴のつま先を突っ込んで、
「はあ?何とおっしゃいましたか?貴兄が私の靴を舐めてくれるのですか?」
と返すところですが、もし、相手が美幼女だったら…。
ただちに地にひれ伏し、幼女の足元にひざまついて、
「ああ…ごしゅじんさま…ごしゅじんさまの意のままに…」
と歓喜に満ち溢れながら、ごしゅじんさまにご奉仕ですよ…はああ…。考えるだけで、至高の悦楽が胸を包みます…ようじょにお仕えすること…ああ、さいこうのかいらく…。
考えてもみてください、無垢なる幼女に、お仕えし、可愛らしい声で罵られ、幼い声で蔑まれ、己のすべてのコントロールを己の意志で、小さな無垢なようじょに委ねることを…。
幼い娘が発する
「おにいちゃんのへんたい!」
という言葉の齎すゾクゾクする愉悦、その無限の自由に開かれた究極の愉悦を。
マゾヒズムとは最も純粋なる期待状態なのです。
ご主人さま(マスター)は、マゾヒストにとって、聖なるもの、絶対的なもの、崇高なるもので現せなければなりません。最も至高のものに己の意志で己の意志を委ねる究極の快感!!
そのとき、マゾヒストはすべての主体性を取り戻し、そしてすべての主体を解放する。
己の主体はマゾヒストのものであるとともに、マゾヒストが育てた己の分身/己の支配者であるご主人さまのものになる。そこに、究極の、全身全霊を打ち震わす快感があるのです。
それはまさに、通常のセックスなど比べ物にならない精神/肉体の二元性を超越する越境の快楽。
マゾヒストにとって、ご主人さまは至高かつ無限の聖なるものでなくてはいけません。
マゾヒストは己の自由意志で、己のすべてを委ね、ご主人さまの持つ至高性へ回帰する。
ゆえに至高なるご主人さまは、両性具有的/無性的でなければなりません。
それはフェティシズム(物神崇拝)的完全さ、つまり『世界の神聖』を求めるがゆえ。
『男根のついた少女』もしくは『女陰のついた少年』は、『プラトン的な完全』を意味する。
例え、男根/女陰がついていなくても、幼い娘/幼い少年は性が未分化であり、ゆえに、両性具有的/無性的な神聖さ/崇高さをその御身に宿されているのです。
ゆえに、我等、大人という穢れ、腐った存在のご主人さまとして、相応しいのは、ただ、無垢なる幼き子供たちだけです…。大人が大人に仕えても、汚さの再生産作業にしかならず、下劣な薄汚さを大人のあいだでぐるぐるまわすだけの何の意味もない事柄にしかなりません。
肉が穢れ魂が腐り果てた存在である「大人」は純粋無垢なる神聖である「子供」に対して己のすべてをお捧げしお仕えすることで、唯一、その身の穢れを払い、腐った魂を浄化させ、真なる神聖へと回帰できるのです。
それこそ、大人のとるべき、唯一の救済の道であり、悦楽に満ち溢れた至高の歓喜なのです!!
大人にとって、ただ唯一にして、真のとるべき道とは、己の腐り果てた卑小さを認め、この現世界(すなわちデミウルゴスの創造した悪しき獄たる最低最悪の邪悪世界)の腐り果てた汚らしく無意味な腐臭を放つ有様を認め、そしてなおかつこの絶望のなかの絶望の運命に対して絶望せずに、裡なる光の元に立ち、真なる世界の輝きたる偉大な子供たちの手に己の運命を委ねることなのです。
我々は無力かつちっぽけな、塵芥の如き存在であり、邪悪な世界に呑みこまれる悲しい宿業を背負っております。
然し、そこで、絶望してニヒリズムに陥るのではなく、
己が身命を真に価値あるもの(=子供たち)の為に微力ながら尽くそうと願い、それを試み続け、賭し続けること、それだけが、我等の実存に意味を与える、生を生きたと云える実存の意味性となるのです。
幼女にお仕えすること、それは人間の生きる意味なのです!!
愛する幼女に、お仕えし、己の意志で、己の身命を最も高貴なる無垢の為に捧げる…。
これほどの歓喜が、この世界に他にありましょうか。
真実に仕えること、善に仕えること、無垢に仕えること、そして何より、美に仕えること…。幼女の奴隷になることこそ、最高の至高性の喜びなのです。
ひとは、幼女の奴隷になることで、真の至福、真の永遠を得るのです。
無垢なる流れが、ひとを癒し、ひとを救う。幼女は世界の光なり…。
「暁が現れるとすぐに、幼女たちは薔薇を摘みに行く。
無垢の流れが小さな谷や首都の数々を駆けめぐり、
この上なく熱狂的な詩人たちの魂を救い、
ゆりかごには保護を、
青春には王冠を、
老人たちには不死への確信をふりかからせる」
(ロートレアモン「ポエジー?」)
ああ、幼女にお仕えして、幼女にわがままに扱われたり(馬にされたりとか、)
罵られたり(「おにいちゃんのへんたい!このまぞ!!」みたいな)
しながらも、ただ忠誠と愛を尽くして、ようじょにすべてを捧げたい…。
ようじょにおつかえすること…さいこうの、さいこうのよろこび…。うれしい…。
「わたしは己の魂に賭けて、貴女の意のままの奴隷となり、
貴女の意する事柄に従い、全身全霊を捧げてお仕えし、愛することを誓う」
貴女の可愛いおみあしに、魂からの誓いのキスを。
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そんな、自他共に認めるド変態がどんな幼女にどのようにして罵られたいかを話し合う素敵に狂ったコミュニティ。
↓こちらのサイト内の幼女ご主人さま論より転載させていただきました
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