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Jackie Robinson

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詳細 2016年5月15日 06:54更新

1947年4月15日、メジャーリーグ史上初の「黒人選手」がデビューした。
彼の名は「ジャッキー・ロビンソン」
今となっては当たり前のように黒人選手が活躍しているが、彼が人種差別の壁を破らなければ現在の、バリー・ボンズや、サミー・ソーサも、メジャー記録、「755本塁打」を放ったハンク・アーロンもいなかったかもしれない。

 当時、ニューヨークのブルックリンに本拠を構えていたドジャースの会長、ブランチ・リッキーの目的はメジャーリーグに実力の高い黒人選手を登用することであった。リッキーとロビンソンが初めて会ったのは1945年のことで、「どれだけひどい仕打ちを受けようとも報復しないだけの勇気を君は持っているか」とリッキーは問いかけた。ロビンソン自身もかなり悩んだが、リッキーの真意を理解し、これを受け入れた。このロビンソンの決断が後々のメジャーリーグ、そして他のスポーツにおいても社会に大きな影響を及ぼしていく。
 
 ブルックリン・ドジャースに入団したジャッキーだったが、ジャッキーが入団した事で、黒人の選手とはプレイ出来ないと、数人の白人選手はチームを後にした。
さらに相手チーム、ファンからも心無い野次が浴びせられ、対戦相手からは対戦拒否と、人種差別は想像を絶していた。
 
 故意のスパイクでユニフォームが裂け流血した事もあったが、ジャッキーは常に紳士的な態度をとり、プレイで周囲を黙らせていった。
世論もそんなジャッキーを徐々に認めていき、1年目のこのシーズンでは、この年から制定された新人王に選ばれた。
現在新人王が「ジャッキー・ロビンソン賞」と言われる由縁は、初代新人王がジャッキーだったことからきている。
 
 もちろんジャッキー1人の力では、人種差別の壁は破れなかった。
周囲の反対をよそに契約を推し進めたドジャースの当時オーナー、前述の「ブランチ・リッキー」
オーナー会議で15対1で反対されながら、ジャッキーがプレイする事にGOサインを出した、当時のコミッショナー、「ハッピー・チャンドラー」
対戦拒否の場合は出場停止処分に処すと強硬な態度を貫いた、当時のナショナルリーグ会長「フォード・フリック」
彼らの内1人でもいなかったら、ジャッキーをはじめ、黒人選手がメジャーリーグでプレイする事はなかったかもしれない。
 
 1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャースvsメッツのゲームで5回終了後、当時のクリントン大統領が記念式典に参加し、次の言葉を残した。
「すべてのアメリカ人は、ジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」と。
 
 1962年には殿堂入りし、さらにジャッキーのつけていた背番号「42」はメジャー全チームで永久欠番になった。

 4月15日は「ジャッキー・ロビンソンデー」とされ、2009年度からは全チームの選手はじめ監督、コーチ、審判全員が42番をつけてプレーしたことからもジャッキーの残した功績がいかに大きいかがうかがる。
          

 http://jp.youtube.com/watch?v=PZkfTmoePJg&feature=related        

ジャッキー・ロビンソン/生涯成績
試合数 1382
安打 1518
本塁打 137
打点 734
盗塁 197
打率 .311
二塁手・外野手、右投右打
1947-1956年 (現役)
1919.1.31-1972.10.24 (生涯)
1962年殿堂入り
    

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