ロベルト・クレメンテという人物がいる。
1934年4月18日にプエルトリコのカロリーナで生まれたロベルト・ウォーカー・クレメンテは52年、高校在学中にウィンター・リーグのサントゥルセで活躍し、54年には一時期、ブルックリン・ドジャースのマイナーでプレー。同じく54年のドラフトでピッツバーグ・パイレーツに一位指名され、亡くなるまでの18年間をパイレーツで過ごすこととなった。この間の記録。
* 66年…MVP
* 71年…ワールド・シリーズMVP
* ナ・リーグ打撃タイトル4回
* オールスター12回
* ゴールド・グラヴ12回
* 60年と71年のワールド・シリーズで毎試合安打
* 3000本安打
* 生涯打率3割1分7厘......
めぼしいもので、これだけある。彼の活躍によって、アメリカ合州国の中で有形無形の差別を受けているラティーノたち、あるいはラテン・アメリカの貧しい人々が多くの勇気を与えられた。さらに、人助けということに関してクレメンテは、人並み以上の情熱をもっていたようである。シーズンオフには多くのボランティア活動に身を投じていた。ロベルト・クレメンテの名は今もプエルトリカンの、いや全てのスポーツファンの心の奥深くに刻まれている。「もし物事を良くする機会があるのにそれをしなかったら、人生を無駄にしていることになる」という彼の言葉が、すべてを表しているといえるだろう。
しかし、この献身的な態度が結局、命取りになってしまった。72年12月31日、ニカラグアへの救援物資を届ける際、積みこんだ物資があまりにも重過ぎ(一説によるときちんと梱包されておらずバランスを崩したらしい)離陸直後、飛行機とともに大西洋に墜落。ロベルト・クレメンテは38歳の若さで、現役バリバリのまま、帰らぬ人となってしまった。現場からは、彼が持っていたブリーフケースが発見されたのみだったという。
これを受けて翌73年、ラテン系としては初めて野球の殿堂入り。また、彼の意志(遺志)を継いだ未亡人らによって故郷プエルトリコにシウダー・デポルティーボ・ロベルト・クレメンテ(ロベルト・クレメンテ・スポーツ・シティ)が完成する。麻薬やアルコールからの矯正施設や身障者のための特別な設備も備えたというここには、もちろん充実したスポーツ施設があり、これまで、フアン・ゴンサレス、ロベルト・アロマー、イバン・ロドリゲス、カルロス・バエルガなどなど、日本でもおなじみの数多くの大リーガーを輩出している。
MLBは1971年からボランティア活動などを通じて、人々に勇気を与え、社会に大きく貢献した選手に「コミッショナー賞」を与えられていたが、クレメンテの死を受けて、1974年からはその名を「ロベルト・クレメンテ賞」とし、彼の業績を永遠に称えることにした。「ロベルト・クレメンテ賞」の主な受賞者として、カル・リプケン,Jr、サミー・ソーサ、カート・シリング、エドガー・マルティネスなどがいる。
自分はロベルト・クレメンテを心から尊敬しています。
困ったときには