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V1 V2

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詳細 2022年11月22日 13:32更新

---------------------V1----------------------

V1とは、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツにおいて開発された兵器である。正式名称は Fi 103 であり、V1 は宣伝相ゲッベルスが命名した報復兵器第一号(フェルゲルトゥングスヴァッフェ・アインツ、Vergeltungswaffe 1)を表す単語の頭文字である。V1はパルスジェットエンジンを搭載しており、現在の巡航ミサイルの始祖とも言える存在である。パルスジェットエンジンは、1920年代半ばに開発された新型の推進機械であった。V1はV-2の開発を行っていたペーネミュンデ陸軍兵器実験場 (HVP) のすぐ西隣の空軍兵器実験場カールスハーゲンでつくられており、V-2の製作に携わっていたドルンベルガーやフォン・ブラウンが知恵を貸したことさえあったと言われている

V1緒元
V1(Fi 103)
全長7.9m 全幅5.3m 胴体最大直径0.84m
発射重量2,200kg 弾頭重量850kg
パルスジェットエンジン(1基)で約600km/hで飛翔
誘導装置:ジャイロスコープによる方向を定める制御装置と、アネロイド気圧高度計による飛行高度設定。機首先端にある小さなプロペラの回転数によって飛翔距離を割り出し、一定回転数でエンジン停止、制御装置が機体を急降下させ目標に突入する。

V1の実用化
1942年6月、航空省はフィーゼラー社に対してパルスジェットを動力とする飛行爆弾の開発を命じる。これがV1開発の始まりである。これの原因は、イギリス本土に対する爆撃機による戦果の問題や、V-2に対する対抗意識もあったと言われている。この飛行爆弾には有人飛行機同様フィーゼラーFi 103の呼称が与えられたが、兵器の特性上、機密保持の観点から「Kirschkern(サクランボの種)」及び「Flakzielgerät(高射砲標的装置)」と呼ばれ、秘匿される。

なお、パルスジェットエンジン本体はアルグス社、誘導装置をジーメンス社、発射台をヘルムート・ヴァルターの会社が担当したので、フィーゼラー社が携わったのは機体本体のみである。

1942年12月、Fw 200コンドルより投下実験、同12月カールスハーゲンよりバルト海に向けて試射。開発を命じてからわずか6ヶ月というスピードであるが、これはV-2と違い、単純な構造であったことと、V-2がそのほとんどを手探りで進まざるを得ない新技術を大量に導入しなければ完成しない兵器であったこととの差である。こうしてこの機体は、V-2のライバルとなった。イギリスに対する長距離攻撃兵器としてV-2とどちらを採用するかは、新たに発足された長距離攻撃委員会にゆだねられることになった。

1942年5月26日、長距離攻撃委員会の委員はペーネミュンデに集まり、討議を行い、結局どちらも生産という結論に達した。その後、委員は発射見学をするが、このときV-2は50%の成功確率であったにもかかわらず2回中2回成功、かたやV1は2回中ともに墜落という不運に見舞われる。その後、1944年6月実戦配備となる。実にノルマンディー上陸作戦の1週間後である。


V1の成果
こうして実戦配備されたV1は、北フランスのカレー地方より19発を発射した。しかしながらイギリス、ロンドンに到達したのはわずかに1発で、ほかは進路をはずす、途中で墜落するという到達率の低さであった。6月末までに2,000発を発射したものの依然として到達率は低い状態であり、当然ロンドンに決定的打撃を与えることなど到底不可能であった。その後9月まで1日平均102発を発射、9月はじめまでに計8,564発(諸説あり)が発射されたものの、ロンドンに到達したのは全体の25%程度に過ぎず、さらには撃墜技術の向上によって、もともと信頼性の低かった誘導性能と相まって、9月までにはさらに低下することになった。

最終的には72%が撃墜、または墜落という有様であった。残りの28%も、ロンドンに到達したのはそのうち9%で、残りの19%は他の地域に落ちることになった。なお、全8,564発中1,912発(22%)はイギリス戦闘機により撃墜、1578発(18%)が対空火器によって撃墜、278発(3%)は阻塞気球に衝突している。結局ロンドンに到達したのは2,340発となった。

9月以降は連合軍がカレー地方に進攻したため、陸上発射を断念、空中発射という方式をとることになる。オランダやベルギーから発進したハインケルHe 111に搭載されたV1はロンドンを目指して飛んだものの、その到達率は陸上発射よりもさらに低く、6.5%となっていた。

10月に連合軍がベルギーのアントワープを奪取すると、今度はこれに矛先を向けることになる。そして年末までに8,698発を発射している。他にベルギーのリエージュに3,141発、ブリュッセルにも151発が発射された。

1945年3月3日からは、オランダから改良され飛行距離の伸びたV1が再びイギリスにむけて発射される。全275発を発射し、イギリスに到達したのは125発(45%)で、86発(31%)が対空火器で撃墜、4発は戦闘機で撃墜されている。同月28日、2発がロンドンに到達し、翌29日に最後の1発がハットフィールドに落下したのが、V1の最後の実戦であった。

実際に発射されたV1は21,770発にのぼり、さらに発射失敗とされているものが2,448発ある。なお、イギリスの被害は死者および重傷者24,165人であり、ヨーロッパ本土での被害は不明。


V1の戦略的意義
V1は、先に述べたとおりに現在の巡航ミサイルの始祖ともいえるものである。しかしながら、当時の制御技術ではV1自身における戦略的な意義はほとんどなく、コストが安かったため大量に製造・発射されたものの、発射数と戦果の状況を見ればわかるとおり割に合わない兵器であった。V1は航空機でも十二分に迎撃可能な高度を、航空機で十分追い越すこともできる600km/h程度で飛翔してくるため、翼同士を当ててバランスを崩させて墜落させるという方法さえ可能であり、イギリスにとっては脅威とはなりえない兵器であった。

そのため、V1については有効的な兵器ではなかったという評価があてはまると思われる。今日でも巡航ミサイルは戦術兵器にあたるものであって、戦略兵器ではない(ただし、通常弾頭を装備している限りは、である)。それをドイツの劣勢挽回のための超兵器に仕立て上げようとしたことに、そもそもの無理があったのかもしれない。その点において、ゲッベルスが付けた、報復兵器、という名前がふさわしいともいえる。

ところが、技術革新がV1の後継者である巡航ミサイルの価値を飛躍的に高めた。冷戦時、巡航ミサイルは核弾頭を装備した状態で、潜水艦に搭載され、両陣営の抑止戦略に貢献した。一方V-2は弾道ミサイルとなって、大陸をも跨いで核弾頭を直接打ち込む兵器となって、こちらも抑止戦略に貢献した。どちらも、それら子孫を生み出した効果のほうが、大戦中に上げた戦果よりもはるかに大きいものである。

V1は、戦術兵器として十分な成果を上げている巡航ミサイルの先鞭を付けた、という点から「時代を先取りしすぎた兵器」といえるであろう。




---------------------V2----------------------



V2号とは宣伝大臣ゲッベルスが命名した報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)を指す。この兵器は第二次世界大戦中にドイツが開発・実用化した世界で最初の軍事用液体燃料ロケット(弾道ミサイル)である。大戦末期、主に英国とベルギーの目標に対し発射された。開発名称のAggregat 4(略号:A4)も知られている。



開発
1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会 (Verein für Raumfahrt,略号:VfR)は、1929年ごろから液体燃料ロケットを研究していた。1932年にヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、同協会の開発したロケットが長距離兵器として使用できる可能性に注目し、当時大尉であったヴァルター・ドルンベルガー (Walter Dornberger)は、ヴェルナー・フォン・ブラウンの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けることを彼に説いた。

フォン・ブラウンはそれに応じた。1934年12月には、フォン・ブラウンはエタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量500kg)の飛行実験で新たな成功を収めた。

1936年までにはチームはA2ロケットの開発計画を終了し、新たにA3とA4の開発に着手していた。後者は射程距離175km、最大高度80km、搭載量約1トンとして設計された。フォン・ブラウンの設計するロケットが兵器としての現実味を帯びつつあったことは明らかであり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場(de)からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島に設けたペーネミュンデ陸軍兵器実験場(HVP)に移した。

A4の約1/2スケールモデルのA3は全4回の打上げに全て失敗したため、A5の設計が始められた。このヴァージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までには開発チームは約70基のA5ロケットを試射していた。

最初のA4は1942年3月に飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下した。2回目の打上げでは高度11.2kmまで飛行して爆発した。
1942年10月3日に行われた3回目の打上げで成功し、ロケットが完全な軌跡を飛び、宇宙空間に突入した初の人工物体となって192km先に落下した。

1940年頃より英軍情報部は写真偵察からこの兵器開発に気づき、1943年8月にペーネミュンデを爆撃した。このためか、同年11月より生産テスト・発射部隊の訓練を内陸部奥深い親衛隊演習場のハイデラガー(現ポーランドのブリッツァ)に移した。ポーランド人レジスタンスが発射されたミサイルをブク川の土手から回収し、極めて重要な技術的詳細を英国に伝えたこともあり、連合軍はペーネミュンデを何回か爆撃し、研究と生産を遅延させた。

ドルンベルガーは、当初より移動式の発射装置を想定し、鉄道、道路輸送を考慮したロケットサイズを設計条件としていた。アドルフ・ヒトラーは頑丈な地下発射施設の建設に拘った。最初の地下発射基地建設は、カレー近くで1943年に開始されたが、英国は直ちにこれを爆撃して破壊した(en)。

このためにブンカー建設計画が破棄され、大型トラクターに牽引された発射台兼用のミサイル運搬車を作ることになった。ミサイル、人員、機器、燃料のために約30台の各種車両から編成される技術部隊、発射部隊を乗せた車列が編制された。ミサイルは工場から鉄道輸送され、運搬車(Vidalwagen)に載せ換え、更に射場へ道路輸送され、弾頭が取り付けられた後に発射部隊がミサイルを発射台兼用運搬車(Meilerwagen)に移し、燃料を注入して発射した。

ミサイルは事実上どこからでも発射することが可能で、カモフラージュの観点から特に森林の道路上から好んで発射された。射場の決定から発射までに要する時間は、4〜6時間程度だった。ミサイル発射部隊は機動的で小部隊だったため、発射・運搬車両は一度として敵空軍に捕捉されたことはなかった。



生産・発射
V2は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘の洞穴を利用した工場で生産された。ドーラと名づけられた強制収容所の労働力が生産にあたった。約10,000人の労働者が過労と警備員の手で殺された。奴隷労働者の多くはフランスとソ連の戦争捕虜であった。

最初に運用段階に達したのは第444砲兵大隊であった。1944年9月2日、彼らは当時解放されたばかりのパリに向けてロケット発射攻撃を開始すべく、ベルギーの近くのホウファリーゼの近くに発射基地を設営した。翌日第485砲兵大隊がロンドン攻撃のためにハーグに移動した。数日間は打ち上げは失敗に終わったが、9月8日両部隊とも発射に成功した。

これらは氷山の一角である。続く数ヶ月間に発射された総数は、次の通りである。
ベルギーに対して
アントワープ 1610
リエージュ 27
ハセルト 13
トゥルネ 9
モンス 3
ディースト 2
フランスに対して
リール 25
パリ 22
トゥールコアン 19
アラス 6
カンブレ 4
イギリスに対して
ロンドン 1358
ノリッジ/イプスウィッチ 44
ドイツに対して
レーマゲン 11
オランダに対して
マーストリヒト 19

1945年3月3日連合軍はハーグ近郊のV2と発射設備を大規模爆撃で破壊しようと試みた。しかし、航法の誤差のためBezuidenhout区域が破壊され、500人の市民が殺された。

V2は、軍事的には効果が大きくはなかった。誘導システムは初歩的過ぎて特定の目標を狙うことはできなかったし、コストは概ね4発爆撃機1機に匹敵した。爆撃機はかなり正確に攻撃でき、より長距離を飛べ、はるかに多い弾頭を運搬できたし、繰り返し使用できた。そうはいっても、V2はかなりの心理的効果をもたらした。爆撃機や、特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違って、V2は音速以上で飛来し、着弾の前に何の警告も無かったし、当時存在したいかなる兵器を用いても迎撃は不可能だったのであり、すでに爆撃機を敵地に向かわせるだけの力がなかったドイツにとって報復兵器でありえたのである。



戦後のV2の利用
戦争の末期には、V2ロケットと技術者たちをできるだけ多く獲得するレースが行われた。米軍はペーパークリップ作戦(en)の下で貨車300両分のV2とその部品を捕獲し、フォン・ブラウンやドルンベルガー将軍をはじめとする126人の主要な設計技術者も米国に連れ帰った。その後数年間、米国のロケット計画は戦争が残した未使用のV-2ロケットを活用して進められた。これらの改良型V-2のひとつである2段式の「バンパー(Bumper)」は、1949年2月24日の試験飛行で当時の高度記録である400kmを達成した。多くのロケットは上層大気の観測など平和的な目的で利用された。

フォン・ブラウンは米国陸軍のレッドストーン兵器廠で勤務することとなり、1950年からはアラバマ州ハンツビルに住むようになった。ほどなく彼はレッドストーン、ジュピター、ジュピター-C、パーシングそしてサターンなど、殆どすべての米国のロケットの生みの親となったのである。

ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえた。元共産党員の妻を持つヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup) がこのグループを率いた。彼らはドイツ国内で研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したが、1946年にソ連は突如彼らをソ連国内の孤島(Goromlia)に収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせた。しかし、ドイツ人の設計によるものは一つも生産されたものはなかった。結局、1950年代になり、ソ連の技術者チームが十分な経験を積むと、ドイツ人技術者チームは、ドイツに帰国させられた。

ドイツ人技術者の技術をもとに、ソ連が開発したミサイルにはV-2のコピーR-1、射程延伸型R-2、R-3(計画のみ)、ソ連で最初に核弾頭を搭載したR-5およびR-5M([NATO]名SS-3 Shyster)などがある。スカッド([NATO]名 SS-1b/c SCUD。ソ連名称 R-11およびR-17。)ミサイルはそれらの技術から発展した戦術ミサイルである。

同様に英国は少数のV2ミサイルを捕獲し、いくつかを北ドイツの射場でバックファイア作戦として打ち上げた。しかし、作戦に関係した技術者はすでに、試験発射の完了後に米国に移ることに合意していた。バックファイア作戦の報告は、あらゆる支援手順、専用の車両そして燃料合成を含む広範囲な技術文書を残した。



技術的な詳細説明
V2の射程距離は約1,000kgの弾頭でおよそ300kmであった。 そのほかの仕様は次の通り:

構成:1段式液体ロケット、全長:約14m、直径:約1.7m、離陸時質量:12,800kg、離陸時推力:27,000kgf、
V2はアルコール(エタノール)と水との混合燃料と酸化剤の液体酸素により推進された。燃料ターボポンプは過酸化水素により駆動された。水とアルコールの混合物は重量軽減のためアルミニウムの燃料タンクに貯蔵されたが、アルミニウムは稀少かつ高価であったため、ドイツの戦時経済にとっては大きい負担であった。

燃料は主燃焼機の壁を通してポンプで運ばれた。これは混合燃料を予熱すると同時に燃焼機を冷却して、過熱による溶融を防ぐためである。そして燃料はアルコールと液体酸素の混合比が常に適切になるように、いくつかのノズルを通って主燃焼室に運ばれた。

いくつかの後期のV2は誘導電波、すなわち目標に対してミサイルを誘導するために地上から送信する電波信号を用いたが、初期モデルはロケットの方位を合わせるための単純なアナログコンピュータを用いた。飛行距離は燃料量で制御された。燃料が燃焼完了すると、ロケットは加速を停止し、程なく放物線飛行カーブの頂点(約80km)に達した。

作戦用のV2は大抵何種類かの迷彩パターンで塗装されたが、終戦近くには全面オリーブグリーン色塗装も見られた。試験中には、ロケットは特徴的な黒白の市松模様で塗装され、ロケットが自身の長軸を回転軸としてスピンしたかどうか判断できるようにされた。



メディア作品の中のV2
V2はトマス・ピンチョンの長編小説『重力の虹』で重要な役割を果たす。

ベルギーの漫画「タンタンの冒険」(w:Tintin)シリーズの作品『タンタンの冒険 めざすは月』(Destination Moon)および『タンタンの冒険 月世界探検』(Explorers on the Moon)に登場する月ロケットは、一見、A4そっくりである。両機の機体表面に描かれているチェック模様が酷似している為だが、これは当時まだ、打ち上げ発射台に乗せたロケット機体の傾き誤差をセンサーで自動検知する技術が確立されていなかった為である(人の視力で、遠方からそれを事前にチェック・把握するしか術が無く、それを少しでも円滑に行い易くする様、機体にチェック模様が塗られていた)。戦後、アメリカが開発した宇宙開発用ロケットの初期段階の機種でも、同じ様な模様を暫く描いて運用されていた。ロケットの表面にチェック模様が描かれるのがごく当たり前の時代に創作されたが為、前述の作品でも同じくそういうデザインが採り入れられたと思われる。

米映画「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」(2004)の最後の場面に登場するロケットも、V2の形をしている。



架空戦記の中のV2
かなり有効な兵器として見られる場合が多く、V2やその発展型が核兵器を搭載し、英本土や米本土、あるいは日本本土まで攻撃することがある。一方で正史ではあまり効果がなかったため、開発を縮小、中止にして核兵器やその他の兵器に力を注ぐという作品もある。

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開設日
2006年9月11日

6469日間運営

カテゴリ
学問、研究
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